真緒のベッドに寝転ばせられたときはまだよかった。心臓の強すぎる拍動が肋骨に響いて痛いくらいだったけど、それよりも、一昨日おろしたばかりの真新しい紺色のカーディガンを取り払われて、ブラウスのボタンを三つ外されれば、もうどうしようもなく目がじんじんと沁みて、涙が頬を伝った。大粒のそれは唇の端っこに引っかかる。塩辛い。

「え」

 涙で真緒の顔がよく見えなかったから目をしばたたかせると余計にこぼれ落ちてくる。鼻を啜ると喉の奥が引き攣って溺れたみたいになる。そのときの私はまったくをもって制御不能な生き物になり、ただひとつだけはっきりと知覚していたのは真緒の枕を涙で濡らしてはいけないという規律だけで、慌てて上体を起こしてベッドから抜け出す。
 焦った結果は、もつれた足が布団にひっかかって膝から床に落っこちるという惨状を見せつけることで終了した。鈍い音と冗談にならない痛みに声を殺して耐えていると、真緒が「馬鹿!」と青ざめながら近寄ってくる。あまりにも切羽詰まった表情に喉がひりつく。

「なに落ちてんだよ……じゃなくて、膝ぶつけただろ。ほら、見てやるから」

 足を差し出せということだとすぐにわかったのに、言うことを聞かず正座で患部を隠そうとして失敗した。真緒は私の足首をひったくり、両足首に両手で力を込める。

「あっ、あ、足! 足が」
「赤くなってる」
「足……を……触って……」

 言いながらぼろぼろと泣くものだから、真緒はほとほと困り果てたというため息をついて足首にかけていた手の力を抜く。転落の際にめくれ上がったスカートも直してくれた。どうやら私は下着を丸出しにして号泣をしていたらしく、そのはしたなさに余計泣けてくる。ぶつけた膝の痛みはもうだいぶ減ったのに、心臓は変わらずに痛みを保っていた。



 子どもをあやすのに向いていそうな声色で名を呼ばれる。真緒の手は私の胸元に伸びたのだけど、四つ目のボタンを征服されるのではなく、外されたすべてを外したその手でまた留められていく。

「え、やだ。やめないで」

 一番上のボタンにかけられた手を両手で掴んだ。片手では収まりきらない大きさの手はすこし汗ばんでいる。

「なんでだよ。泣いてるくせになに言ってんだ」
「待って。泣き止む。あと十秒」
「……はいはい。じゅーう、きゅーう、はーち……」

 カウントダウンをしながらも真緒は自分が羽織っているパーカーを脱いで肩にかけてくる。それを振り払おうとした手は不自然にそこらへんをさまよい、結局太ももの上に着陸した。膝が赤くなっている。手の甲は涙で湿りきっており、ブラウスの皺がやたらと目に付く。
 五か、四か。真緒のカウントダウンが終わりに近付くにつれて、ベッドから逃げ出したときと同じ種類の焦燥が沸き立つ。顔から火を吹いてしまいそうだ。もうわかりやすいほどのパニックに見舞われ、痛む膝への思いやりを忘れたまま、素知らぬ顔でのんきにぶら下がっているネクタイを強く引っ張って身体ごと引き寄せる。
 ゼロに辿り着く前に、数字が途切れて唇がぶつかった。

「……俺、おまえのことよくわかんないんだけど。やめたらいいのか、やめないでもいいのか…」
「やめないでほしい。真緒はやめたいの?」
「俺じゃないだろ。俺のことじゃなくて、だろ。泣いてるくせに」
「泣き止んだ!」
「膝は?」
「痛い」
「馬鹿」

 真緒の唇を奪った体勢のままだったので、膝への負荷は計り知れなかった。決死の膝立ちは解きほぐされ、腰を掴まれたまま、今度は私が引き寄せられる。あぐらをかいた真緒の上に乗っかると、親を見失った子どものような心境をもってパニックに勤しんでいた頭がすうっと冷えていく。背筋から力が抜けて、真緒の肩に顎を乗せて息を吐いた。首に息がかかってしまったのか真緒は「うわ」と言いながら身をよじる。くすぐったがっている姿が可愛くて、おもしろがって今度は作意的に息を吹きかけると仕返しにお腹を撫でられる。涙のあとで目が痛いし、鼻もつまっているし、膝は変わらず痛い。だけど真緒の手は絶対に思いやりを忘れておらず、どこか慈しむようなやさしい手つきに心臓の痛みも和らいで、身体をすべて預けてしまってもいいと芯から思う。

 くすぐりあって、もつれあって、そうして触り合っているうちにベッドの上に寝転がらされた。「いいんだな、本当に」覆い被さりながらも重々しく了承を得ようとする真緒の首の後ろに腕を回し、お腹に力を入れて唇を重ねた。ネクタイを引っ張ったときよりも静かに、形式ばっているやり方で。

「どうぞ。真緒の好きにしてください」

 照れ隠しに大げさな言い方をしたのだと、真緒は見抜いている。震えそうになる手で真緒のネクタイを解いた。ただの一本の布になったそれを床に落とせば、順番を守って次は真緒がブラウスのボタンを外していく。
 目尻からこぼれ落ちた最後の涙は真緒の唇に馴染んで、頬の熱は天井を知らぬまま這い上がっていった。