オレンジジュースを透かしたような鮮やかな橙色が世界をすっぽりと包み込んでいる。外国と繋がっているはずの海と、僕たちが住んでいるミニチュアの街。地上から切り離された途端に、すべてが他人事のように感じる。
ふたりを乗せた観覧車はもうすぐ十二時の高さに到達する。ちゃんのきれいな目に反射する海原のきらきらはまるで宝石のようだ。じっと見つめているうちに胸がぐっと詰まってゆき、吐き出す息がやたらと熱いことに気が付く。
○
「ちゃんって遊園地が好きなの?」
それは、ユニットでの練習が終わって後片付けをしていたときだった。ちゃんの鞄からはみ出たカラフルな本の表紙が目に留まり、深く考えずに疑問を口に出す。
この近辺の遊園地が特集されている薄い冊子を取り出して「これね」と笑う。どきりとした。さりげない仕草のひとつひとつに息が止まりそうになったのはこれが初めてではないけれど、いつから自分の身体がそんな病気めいたものを抱えるようになったのかわからない。
「遊園地でライブするのもいいなって思って、このあたりの遊園地を調べてたの」
「へえ〜……、意外といろんなところがあるんだね」
「小さいころにね、お母さんが作ったお弁当を持って家族揃って遊びに行ったこととか思い出して……懐かしいな」
両親に両手を繋がれて歩行に一生懸命なちゃんを想像する。きっと今よりも小さな女の子だったのだろう。それこそ、背丈が今の僕の腰あたりまでしかないような、幼稚園を卒園したくらいの、純真な幼い子どもだ。
「真くんは遊園地好き?」
僕の想像(もとい、妄想)とそうズレのない純粋な声にはっとして頭をぶんぶん振る。
「え、好きじゃないの?」
「ち、違う! 好きだよ。あっ、い、今のは遊園地がっていう意味で!」
「うん……?」
「おまえら、遊園地に行くのか?」
肩にかけたタオルで顔に浮かんだ汗を拭いながら自然と会話に入り込んできた衣更くんは、楽しそうだなあ、と朗らかに笑う。
最後に遊園地に行ったのはいつだったかな……なかなか行かなくなるよね……小さいころはゴーカートばっかり乗ってて……。
楽しそうに話す衣更くんとちゃんの声を聞くと、むずむずする。そわそわする。はらはらする。口の動きと表情の細部を観察して、声の明るさや、笑顔の濃さが僕に向けられたそれらと違ってはいないだろうか。ちゃんの仕草に、衣更くんに対する好意が含まれてはいないだろうか。
純粋ではないことを考えると罪悪感がむくむくと膨れ上がる。毎日のように『そうではない可能性』を細々と拾い集め、必死に組み立てたもので自分にとって都合の悪い妄想を打ち消し、自意識を保っているなんて、誰にも知られたくない。
罪の意識を抱えて帰ったその夜、お風呂を上がってスマートフォンを見るとちゃんからのメッセージが届いていた。
今度のお休みの日に、ふたりで遊園地に行きませんか?
至極情け無いことに、僕はそのメッセージを読むや否やスマートフォンを裸足の足の甲へと落っことして、ひどい激痛に悶絶した。
文字でのやりとりになると敬語が混じる彼女の癖。しゃがみこんで足を抱えて踞っていると、胸の奥の方から疼くような熱いものが生まれて僕をさらに苦しめる。
○
お互いに丸一日の休みを捻出しづらく、待ち合わせの時刻は正午をまわった午後二時まで延びてしまった。
なにを模しているのか不明なオブジェに背中を預けているちゃんに駆け寄ると開口一番に「真くん、おしゃれだね。かっこいい」と褒められる。
「あ、ありがとう」
思い切り浮かれて、数日前から時間をかけて着ていく服を選んだ。どれを身につけてもおかしい気がして、クローゼットと鏡の前を何度も往復した。食べるもののすべてがひどく美味しく感じた。空がやたらとまぶしく見えた。汗が滲むくらいのスポットライトに照らされながらステージに立っているときと同じくらいに、世界が輝いていた。
春色のワンピースに身を包んだちゃんになにか気の効いた言葉をかけたらよかったのに、僕の喉は脳と視界を征服する圧倒的な刺激を遣り過ごすのに精一杯で、「行こうか」と声をかけられるまで黙ったままだったのだけれど。
○
お誘いのメッセージを送れたり、さりげなく服装を褒められたり、喉が乾いたタイミングでジュースを買おうと提案したり。ちゃんはとてもやさしいし、親切で気がよく回る子だ。彼女の穏やかな気質に寄り添うと、ゆったりとした気分になる。となりにいるだけで満たされる。
決してきらびやかではない小さな遊園地の中を弾んだ足取りで歩き回り、ジェットコースターではしゃぐような叫び声をあげる。赤や黄色のカラフルな空中ブランコが水色の空に向かって跳躍する。ちゃんが溶け込んだ世界のすべてに目が眩む。
だけどそうしたとりとめのない熱がだれかのものになるかもしれない可能性を考えるだけで、自分の大切なものが損なわれるような虚無感に苛まれる。嫌だと思った。
「……疲れてない? 大丈夫?」
あっという間に夕方になり、最後に観覧車へと乗り込んだ。ふわりと浮かんで行く鉄のかたまり。息をついて窓の外に視線をうつしたときにちゃんが遠慮がちにたずねてくる。
「全然! むしろすごく楽しかったっていうか」
「よかった。その、いきなり誘っちゃったなって心配してたんだけど」
怪我のひとつもできなかった足の甲がずくりと痛んだ気がした。
「……でも、なんで僕を誘ったのかなとかは、思ったよ」
遊園地の規模にしては大きな円を描く巨大観覧車の動きは、象よりも遅く、空が遠い。頬を夕焼けに染めたちゃんは何度か口を開閉させて、ぱっと目を逸らした。もう、心臓がやけどしそうだ。
「真くんはきっと断るんだって思ったの」
目を合わせないままに告げられる。ちゃんは海原の方向に首を回したまま、薄く開いた唇の隙間から短い呼吸を繰り返していた。
「ふたりで行くって言っちゃったし、そうしたらもう逃げ道がなくなるでしょ。真くんに断られたら、真くんのことをきちんと諦めようって……。だから、いいよって返事が来たときはすっごくびっくりして携帯落としちゃった」
窓から容赦なく差し込む夕陽の中でちゃんが照れくさそうに微笑む。観覧車はもうすぐ十二時の位置に達するから、僕はおもむろに立ち上がり、ちゃんの腕を掴んでぐいっと持ち上げる。短い悲鳴をあげたちゃんの両腕を逃がさないようにぎゅっと握る。瞳の中にあった海原のきらきらは消え失せ、かわりに棲むのは焦りを隠せない僕だ。
「ちゃん、あのさ、僕」
突然立ち上がったために生まれた揺れがおさまり、観覧車は下降に突入する。