「平気か」

 大マハマトラのセノと名乗った男の人は、今日だけで何度もそう尋ねた。

「は、はい……」

 私も、喉の乾きや緊張から頼りない声になりつつも、その都度なんどもそう答えた。


 砂に足を埋めると、陽光をたっぷりと吸い込んださらさらの砂が足首にまで纏わり付き、靴下越しに熱を伝えてくる。ふにゃふにゃの地面が重心を奪おうとするのを、二本足で懸命に抗うから、舗装されている道を歩くより何倍も苦労している。
 半歩前を歩くセノという人物は、ときどきこちらを振り返り、平気かと声をかけてくる。お決まりのように小さく頷いて返事をする。歩きにくいだとか、陽の光が強烈で痛いほどだとか、あれこれと言いたいことはあるが、出会ったばかりのセノにそれを言っても良いのかわからない。
 彼に「何者か」「どこから来たのか」「ここで何をしていたのか」とあれこれ尋ねられても、そのどれもにうまく答えられず、視線を彷徨わせた先には、日常では身近にはなかった(そしておそらく一般的な形状ではない)槍のような武器があった。それを目にした瞬間、全身から血の気が引いていき、さらに言葉がぴしりと固まり、かわりに涙がこみ上げてきた情けない記憶は最新のものだ。


 アアル村という村には、日が傾いていたころに到着した。アラビア風と表せばよいのか……四角の建物が崖に寄り沿うようにしてぎゅっとまとめられている。砂漠よりは歩きやすいものの、道のすみや石畳の溝にも砂が溜まっており、靴の裏をざらざら鳴らしている。
 村中に漂う香りは甘いような刺激があるような、これもやはり生まれ育った日本とは違っているもので、歩けば歩くほど遠いところにやってきた実感が明確な輪郭を帯びて私の前に立ちはだかる。

「ここで一泊させてもらうことになった。……平気か?」

 何度も尋ねられた質問に、少しだけ遅れてうなずく。胸元をぎゅっと握りしめていた手が、力を入れすぎていたあまりに白くなってしまっているのを、じっと向けられた視線に咎められているかのようだった。まっすぐな目から逃げるように、手のひらを腰の後ろに隠す。ずっとここにいたら、私というものが曖昧になって、そのうちなくなってしまうような気がするから、一刻も早くにもとの世界に戻りたいなんて、言えるはずもない。
 セノはぱちぱちと瞬きをして口を開きかけたが、結局なにも言わなかった。



「どこへ行く」

 となりのベッドで眠っていたはずのセノは静かな声で夜の空気を震わす。おどろいて足がもつれて転びそうになった。「痛っ」ベッドの縁に膝がぶつかり、じんとした痛みが広がって、また、平気か、の確認が降ってくる。

「うん……びっくりしました」
「すまない。驚かせる気はなかったんだが。それで、どこに行くつもりだったんだ」
「どこっていうか、眠れなくて外の空気を吸おうと思っただけです。ごめんなさい」
「なぜ謝る。外に行くなら、俺もついていく。お前はここでは目立ちすぎるからな」
「えっ」

 すくっとベッドから抜け出し、さっさと出入り口の扉の近くへ歩んでいく。ここから逃げると思われているのだろう、外出など許されないのだろう……スメールシティという場所に連れていかれたら、不審者として突き出されるのかもしれないと、頭の隅で考えていたのだ。

「……夜も遅い。村の中とはいえ確実に安全とは言い切れない。不自由かもしれないが、我慢してくれ」

 人が人に襲われることがあるかもしれなくて、それがわりと身近な出来事で、もとの世界のように振る舞っていたら危ないようだ。だからこそセノは武器を携帯しているのかもしれない。宿を手配してくれた女性も、引き締まった体つきをしていた。砂漠を歩くだけで泣き言を溢しそうになった私が、到底ひとりでやっていけるとは思えず、素直に従って「わかりました」とセノに頼る方を選ぶ。


 村の出入り口らしき場所までゆっくりと歩き、段差に腰を下ろす。大きな生き物がそばで眠っている。熊とも違うな……と眺めていると、セノが「あれは駄獣だ」と解説した。セノは心が読めるのかもしれない。
 この世界のこと、もとの世界のこと。帰り方や、帰れなかったときの生き方。あれやこれやと考えないといけないことはあるというのに、考え方すらわからないので、八方塞がりでどうしようもない。

「え、どこにいくの?」

 そばに立っていたセノが段差をのぼり離れていくので、慌てて振り返って声をかける。安全じゃないかもしれないと釘を刺された手前、離れていかれると不安を感じる。

「いろいろと整理したいことがあるのだろう。俺が傍にいたら気が散ると思ったんだが……。いざというときは守れる距離には居る」

 整理したいことは確かにあるけれど、気が散るだなんて微塵も思っていないのだから驚いた。私の一貫して弱気な態度がそうさせてしまっているのだろうと思うと申し訳なく、ひどく心苦しい。
 ぶんぶんと首を横に振り、「ここに居てほしいです、嫌じゃなかったら……」と言えば、セノは目をまん丸にしてみせた。真顔と厳しい顔と、困り顔しか見ていないから、こんな表情もするのかと、また驚かされる。

「それに、考えないといけないことはあるはずなのに、考え方もわからないんです。えっと、だから……」

 ひとりだったら、この村に来て寝る場所と確保するなんてことも思いつかなかっただろう。現時点ではセノがいないとなんにもできないのだから、どこかに連れていかれて警察や役所に引き渡されるとしても、セノがいなくなったら途方に暮れてしまう。心細さに耐えきれないかもしれない。そうか、私は心細く思っているのかと自覚すると、目頭が熱を持っていく気がしてたまらなかった。セノがとなりに腰掛けてくる気配を感じ取りながら、少しだけ湿っぽくなった目の端をこする。そして、不安や迷いを誤魔化すようにして、口を開く。

「どうするのが一番いいとか、どこに行くべきとか、全然わからなくて、ひとりじゃなんにも決められない……。迷惑ばかりかけてしまって、ごめんなさい」
「……そうか」

 セノの静かな相槌が乾燥した夜なかの風にさらわれていく。どこか砂埃の匂いが混じる、知らない匂いだった。そして、今日会ったばかりの知らない男のひとに、ほんの少しだけ弱音を吐いて、胸のあたりでわだかまっていた不安を濾してみたりしている。

「一番いい方法はわからないが、どうするのがいいのかは、俺も一緒に考えてやれると思う」

 砂漠の真ん中に放り出したり、適当にどこかへ突き出したりしないという意味を孕んだセノの宣言に、胸の奥で張り詰めていた部分がいくらかほどける。先ほどよりもゆったりと地面にお尻を沈ませる。硬い地面、知らない匂い、初めて会ったひと。
 セノと私は、見た目から推測するに、年齢にさほど差はないようだと思うけれど、村の人の何人かがかしこまった具合で話しかけていたので、身分の高いひとなのかもしれない。

「えっと、セノさん、セノさまが一緒に考えてくれるのは、心強いです」
「は……。いや、セノでいい。畏る必要もない。俺はただのセノで、お前はただのだ」
「セノ……」

 私のなかに入り込んできたばかりの名前は、軽やかな響きでじんわりと馴染んでいく。セノ、セノと練習するように胸の裡で呼んでいると、同じくして、セノが私の名前を呟いていた。


「き、聞こえてます。聞こえてるよ」

 しばらく放っていると、こちらを向いて二度名前を呼ばれたので、顔を向けずにはいられなくなる。「そうか」と返事をしたセノは、切れ長の目元をやわらかく緩ませている。

「なんで笑うの」
「いや、……お前の反応が新鮮だと思って」

 しんせん。私にとってはこの場所、この空、この地面のすべてが新鮮なものなのに、なんの変哲もないただひとりの人間が、私のであるセノにとって新鮮なものになっているとは、おかしな感覚だ。