「顔色が良くなったね」

 スメールローズの香りが鼻を掠める過ごしやすい日に、私が給仕として働いている喫茶店にやってきたティナリは、顔を合わせるなりそう言った。ちょうど勤務が終わる時間だったので、ティナリの前にハーブティーを置いて、自分用に淹れた紅茶のカップを持ったまま向かいの席に座る。
 熱を出してセノに看病してもらってからしばらく経つ。ときどき、どうしようもなく気落ちするときはあるが、セノが顔をしかめない程度に食事と睡眠を改良したおかげか、調子の悪さは時間を重ねるごとに薄れていった。

の調子が悪いと、僕のもとに届くセノからの手紙が長くなる」
「えっ」

 静かにお茶をのんでいたティナリが脈絡なく告げるものだから、ティースプーンを持つ手首が震えてあさってな動きをしたせいで、角砂糖が飴色の表面にぽちゃんと波紋と作った。「最近は短くなってきていたから、調子が良いんだと思っていたんだよ」と付け足されるが、間接的に面倒をかけていた事実を知り、恐縮して縮こまる。
 ティナリからは新鮮な植物や柑橘類や、その他諸々が混ざり合った複雑で鮮やかな香りが漂う。砂漠を抜け高熱に魘されているさなか、セノの依頼ではるばるキャラバン宿駅にやってきたティナリは、得体の知れない人間であることは隅に置いたまま私を丁寧に診察した。そのときも、今と同じ良い香りを携えていた。

「それで、きみが手紙に書いた件だけど。セノに贈り物がしたいんだって? 具体的にはどんなものがいいの?」

 暝彩鳥を介してティナリに届けた手紙には、ティナリへのお願いごとを一つだけ書き記していた。ずっと頭の隅に置いていて、毎日目を覚ますときにいつか実行しようと考えながらも、足踏みしていたこと。
 父の日や母の日、クリスマスなどといった「公然と贈り物を渡せる日」がこの国に存在するかどうかを、私は知らない。それに、もし存在していたとしてもその日を待つのでは、セノに物を贈る機会はなかなか巡ってこないだろう。本来であれば、感謝を込めたお返礼を数ヶ月前にセノへ向けているべきなのだ。

「枕とか、クッションとか、ブランケットとか、そういうものが置いてあるお店がいいんだけど」
「もしかして、セノを寝かせたいの?」
「そうじゃない……。それに、セノが私の前で寝ると思う?」
「むしろ、どうして無いと思うのかな。可能性はゼロじゃないよ」

 私はセノの前で呑気に寝こけてばかりだが、セノが私の前で眠っているのを見たことがない。砂漠で野営したときも、セノは眠っていなかった。私はといえば、疲労と緊張で細切れに眠り、どんどん思考が鈍っていったので、セノの睡眠に気を配る余裕がなかったのだけれど……、今は違う。

「……セノはいつも私に休めって言うんだけど、セノの方が私よりも休めてないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「え? ええっと、疲れた顔をしているときがあるから、かな?」

 当然のことながら、セノが私に「疲れた」とか「眠たい」と愚痴を零すことは一切無いが、目元に隈ができていたり、痩せたように見えたり、ぼうっと遠くを見ていたりと、疲労が溜まっているような姿を見かけたのは一度ではない。もっとも、その次に会ったときにはすっかり疲労の残滓をきれいさっぱり除去した状態になっているのだけれど、忘れた頃に、また疲れた顔を引き下げてくる。
 眠気と熱で朦朧とした口が純度の高い本音を吐き出したのは記憶している。セノが私の心配をするから、私がセノの心配をするーー私ではその役割を担うには分不相応な気もするし、もとよりセノの方があらゆる点において優っている。隙がないともいう。

「……なんだ、きみたち随分仲良くなったんだね」

 ティナリは新緑を思わせる目を丸くして感嘆を声色に含ませる。セノが疲れた顔を見せるなんて……と。疲れは意図の有無にかかわらず表情や体に滲み出るものではないかというのが私の感想なのだが、大マハマトラといった職に就き責務を全うするセノに関しては例外らしい。……多忙で複雑で困難である雰囲気を察しこそすれ、セノの職業がセノにどの程度の負荷をかけるものなのかをほとんど知らない。

「セノがの身を引き受けると聞いたとき、最初はどうなるかと思ったんだけど、きみたちの様子を数ヶ月見ていて、半分は安心できたかな」
「残りの半分は、不安……?」
「不安というよりは、心配かな」
「それはどうして?」
「きみたちは僕の予想よりもずっと早く仲良しになったようだから」

 含みを持った言い方になんて返事をしたらいいのか見当もつかない。黙ったまま俯き、ティナリの優しげな視線をつむじあたりに受け止め、心配に該当する「半分」について思案してみる。セノと離れなければならないときに、泣いたり悲しんだりせずに、受け容れられるかどうか。その「半分」が実際に起きてしまうのかもしれないという予感が、私の背筋を冷たくさせ、微かにぶるぶると震え出す。寒気を紛らわすため、紅茶に砂糖を追加で溶かした。甘くて細かな粒子は円の中心に吸い込まれるようにして、やがて消えていった。「ねえ」と、ティナリの紅茶よりも柔らかい声が、背骨を巣食う寒気の隅にじわりと滲み出す。

「いいお店を知ってるからそこに連れていってあげる。でも、選ぶのは手伝わない。セノのためのものなら、が一人で選ぶべきだ」
「えっ……、で、でも私、セノの好きな物を知らない」
「僕が選んだセノの好みのものと、が何時間も悩んでセノのために選んだものの、どっちがセノを喜ばせられると思う?」

 たちのぼるお茶の香りを前に、自信が急速で萎んでいく。私が見当違いなものを押し付けるよりも、ティナリが選ぶセノ好みの品を選択する方が、セノを喜ばせられる気がした。
 押し黙って、ティナリを見つめる。「助言はしてあげるからそんな顔をしないでよ」というのが、ティナリによる最大の譲歩らしい。





 つんとした香辛料のにおい。見たこともない模様の織物。綺麗な花や所狭しと並べられた細工の凝った瓶たち。多くの彩りのあるものたちを見て回ったからか、情報の多さにぐるぐると目が周ってしまい、果てには上手に人混みを縫って歩くティナリに手を引かれていた。
 見知らぬ土地ですっかり小心者のようになってしまった私は、必要以上にどこへでも出歩くこともせず、行動範囲は基本的に家と働き先くらいしかない。だから、ティナリがいなければ、まともに歩くこともかなわなかっただろう。


 慣れない人混みにどっぷりと浸かり、どうにかセノへの贈り物を購入したときには心が弛び、足の裏からどろりと溶けてなくなってしまいそうなほどであった。家まで送ってくれたティナリは、当面の常備薬と私がいつもいい香りと褒めているオイルをお土産に残して、帰っていった。オイルを髪に塗り込んで暇を潰していたはずが、皮張りのソファに横たわっていつの間にかうたた寝していたらしい。
 控えめに扉を叩く音に意識が引っ張られていく。薄く目を開くと、つけたままだった灯りの淡い白色が視界を照らす。がらんとした部屋に、先日セノが持ってきてくれた白い花が綺麗に咲いている。その花からは、バニラのような甘い香りが漂い、部屋の空気を柔らかいものに作り替えてくれていた。

「眠っていたのか」

 セノの視線がおそらく乱れていると思われる髪に向けられ、慌てて手櫛で直す。寝巻きのボタンをいくつか留めるのをさぼっているとあまりおもしろい顔をしてくれないのは何度も経験していることだけれど、どうしたって、なぜか、セノの前だと気が緩んでしまう。

「ちょっとだけ居眠りしてたみたい……。セノ、おかえりなさい」

 ティナリに「仲が良くなった」と評価されるとしたら、「おかえり」と「ただいま」があいさつになった部分が該当するだろう。熱を出して寝込んだ日を起点に何日かはセノが時間を作って頻繁に会いにきてくれていたから、しょっちゅう顔を合わせていると「おかえり」が一番しっくりくるあいさつに落ち着いた。数日開いたあとにうっかりして「おかえり」と言ってしまったときも、撤回する前にすぐ「ただいま」と応えてくれたセノの密やかな声が嬉しくて、以来、やめられずにいる。

「寝不足なのか?」

 セノのために珈琲を淹れて、ソファに寄り添うようにして鎮座する丸いサイドテーブルの上に置いたとき、立ったままのセノに訊ねられて首を横に振った。

「今日は人混みに行ってきたからそれで疲れたのかも。楽しかったから、今日は、本当になんともないよ」

 ソファに座らせるために、硬い腕を掴んで引っ張ると、すとんと素直に座ってくれる。少し前までは、玄関先で簡素な会話をするだけで、セノが座ってお茶をのんでいってくれることなどほとんどなかった。近況を尋ねられて答えるという流れに終始していた日々の先に、現在が繋がっているなんて……と思い至り、また、ティナリに言われた「仲良くなった」という言葉が脳をこだまして、全身がほのかに熱くなっていく。

「ああ、そうか。そういえば、ティナリと出かけると言っていたな。ティナリは?」
「お仕事があるとかでもう帰っちゃった。今度、ガンダルヴァー村に遊びにおいでって」

 一緒に行こう、と誘ってもいいのかどうかわからず、陶器のコップに口をつけて迷いごと飲み下す。ティナリが暮らすガンダルヴァー村という場所に行ってみたい気持ちはあるが、土地勘もなく車も電車もないこの国を歩く勇気は、砂漠を抜ける最中ずっとセノに迷惑をかけてしまった記憶が悉く潰していくのだった。
 お礼をしたいと思い、そのために行動できるようになった段だ、新しいお願いをしてセノを煩わせていてはいけないと自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がり、ソファの後ろに隠していたものを取り出した。それを、じっと座るセノに差し出す。いつもありがとう、と飾らずに伝えて渡すつもりだったのに、なぜかこのとき心臓が胸骨を叩いてやまず、息苦しさのせいで無言になってしまったのは、大きな過ちだった。突然リボンで装飾されたクッションを突きつけられたセノは「……それを今日購入したのか? いい品だと思う」と首をかしげながらも感想を述べた。

「……ち、違う。これは、セノにあげるものなの。だから……どうぞ……」

 綺麗な模様がたくさんあり、選ぶまでに随分と迷ってしまった。いつも花をくれるのは植物が好きだからなのかもしれないと、白地の布に金色の糸で植物模様の刺繍が施されているクッションに決めたのは良かったが、ティナリの提案でダークグリーンの光沢あるリボンをお店の人にかけてもらっているときから徐々に心臓の音が速くなっていった。落ち着かず、下手をしたら、わっ、と大きな声を出して駆け出してしまいそうだった。
 よもや私から贈り物をもらうことなど想像だにしなかったといったふうに目を丸くしているセノは、しかし丁寧にクッションを受け取って「俺に? ありがとう。だけど……何故」と疑問を声を乗せる。

「だって、私いつもセノのお世話になってるから」
「お世話?」
「つまり……、あのね、いつもありがとう」

 まっすぐに見上げてくる朝焼け色の視線を受け止めきれず、ソファに座り直して膝を撫でつける。ティナリにひとりで選ぶように言われたこととか、前々からお礼の贈り物をしたいと思っていたこととか、しっかり休んでほしいと心配しているから仮眠に最適なクッションにしたこととか、沈黙を埋める話題を捻り出そうと思えばできたが、セノが「ありがとう」と、とんでもなく柔らかい声で言うので、頭が真っ白になってなにも言えなくなってしまう。

「大事にする」
「うん、よろしくお願いします」

 ひたすらに膝を見つめている私の頬にかかった髪を、となりにいるセノが触るのを、緊張しながら受け容れる。髪を何度か撫でられて、体調が悪くもないのになぜそうされているのかちっとも理解できなくて、そろそろとセノの方を向く。

「……ティナリの匂いがする」

 目が合ったとき、髪に触れている手の動きがとまり、セノの発言にティナリがくれたオイルが私の髪に塗り込められているのを、漸く思い出す。ティナリの匂いではなくオイルの匂いだと説明すると、そのまま人差し指と親指で持ち上げた髪の束をじっと見つめ出す。

「セノ?」

 もともと感情が読みづらいが、さらに難易度を上げた表情を貼り付けたセノは、なんの変哲もない私の髪を見つめて黙り込んでしまう。

「セノ、ねえ」

 調子を崩しているときや、泣いているときに宥めるように触れてもらうのとは違う。骨張った指先に熱っぽさが含まれているからだろうか……。
 指先と同じく骨張った手首を掴みながらセノの名前を呼ぶ。はっと視線を持ち上げたセノの複雑な表情の中に、わずかなばつの悪さが浮かび上がった。

「ああ、いや……、すまない。痛かったか?」
「痛くなんかないけど。セノ、どうかしたの?」
「……わからない。ただ、お前から、ティナリの匂いがしたから」

 わからない、と重ねて呟いたセノの低く掠れた声が、鼓膜をびりびりと揺する。セノにわからないことが、私にわかるとも思えない。ティナリの匂いではないと二度訂正する気も萎み、セノの出方を伺っていると、クッションを丁寧に抱えて立ち上がって、静かに放された髪がはらりと落ちて頬にかかった。

「……すまない、また来るよ」

 ひとりになった部屋で、セノが来るまでそうしていたように、ごろんと横になって、ソファの分厚い皮張りに頬を押し付ける。冷たかった、そう感じるほど、頬が火照っていた。身体を受け止めてくれる柔らかいものが欲しいと思った。このソファのためにも、クッションを買うべきだったかもしれない。