開かれた窓から入り込んだ風に吹かれ、花瓶にさしていた花から花びらが一枚剥がれ床に落ちた。この花をくれた人と、この世界で拾ってくれた人は同一人物だった。
この世界に迷い込んだ日、セノに素性をたずねられた私はひどく取り乱して号泣し息が浅くなり、瞬く間に気絶した。目が覚めたあとに広げられた地図に自分の帰る場所を見つけられなくて、また泣いた。セノはその一連の出来事を「無抵抗な人間を必要以上に威圧して害を与えた」と大袈裟に表現する。
花びらを拾ったときにタイミングよく叩かれた扉の音は、過去の出来事を再生しているせいでぼうっとしていた意識をしゃんとさせる。
セノは寝巻き姿で出迎えた私を見るなり眉を寄せたがあからさまに咎めることはせず、湿った夜風と共に私の肩をやわらかく掴んで室内に押し込む。静かに鍵を締め、外套を脱いでチョコレート色をした木製のハンガーラックにそれを掛けた。
横着をして首元からひとつふたつボタンホールに引っ掛けていなかったボタンを留めたら、厳しい顔つきをしていた彼はようやく一歩近づいてきて、花びらを引き取るかわりに、紙袋を差し出してきた。ほんのり甘い香りを漂わせるその中身はバクラヴァで、現時点において私がこの国で一番気に入っている料理だ。「嬉しい」と「ありがとう」を素直に伝えると、セノは朝焼け色の目をふっと解けさせる。
「はもっと食べたほうがいい」
小言は私が学習しないせいで会うたびに必ず繰り返されている。
セノがどういう手段を経て街の外れに建つこの小さな家を用意したのか私には一切知らされないものだから、ここに来て数ヶ月経つというのに、いまだかつて家賃の支払いを行ったことがない。そのため、ささやかな労働の対価はすべて食事やその他の雑費に充てられるので、食べることには困っていないのだ。
「セノが心配しなくてもちゃんと食べてるよ」
「どうだか。料理の匂いが独特で、いまひとつ食が進まないのだとティナリに話しただろう」
「……ティナリのおしゃべり」
「とにかく、食が進まないのだとしても、なにか食べたほうがいい。気づいてないのかもしれないが、顔色が悪いぞ」
乾いた親指の腹が私の目元をなぞり、反射的に瞑った。ややあって開いた視界にいるセノの表情は変わらないが、決して力を込めない触れ方に、私の身を心配してくれているのかもしれないと思わされる。
「しばらく仕事を休んだらどうだ」
その提案には首を横に振って拒否をする。セノは私の寝巻きのボタンが外れているのを見たときよりも深く眉間にしわを寄せた。私は基本的にセノの言うことに従うから、ときどきこうして自らの意志を示すと難しい表情を向けられてしまう。
お手伝いレベルの仕事を毎日こなしているのは、生計を立てるため、というよりは、時間を使うためだった。この不思議な世界で、社会との繋がりを失うことは、今の私にとって食事を抜くよりも辛いことだ。
「平気、私、なんともない。セノが思っているよりも丈夫だよ」
「だが……、以前よりも労働時間が伸びているだろう。きちんと金銭として対価を得ているのか?」
「うん、もらってる。どうして?」
「……お前がただ消費されているのだとしたら、辛抱できないと思っただけだ」
そうじゃないのならいいと呟き、頭にゆっくりと触れてくる。遠慮がちな手つきがこそばゆい。そう思えば思うほどお腹の底からどんどんと気恥ずかしさが湧き上がる。
出会った頃の一件以来、心情や目的は不明だが、現実としてセノはやたらと世話を焼いてくれる。それほど歳も変わらないであろう相手(それも、異性)に気を配られるのは妙な恥ずかしさを覚えるものの、身寄りのないこの土地でどこにいてもなにをしていても根本は心細く感じてしまっている私は、結局のところセノに頼ってしまうのだ。
「セノ」
透明な視線が私のものと絡み合うのを確認してから、セノがくれた紙袋を注意深く持ち上げた。
「一緒に食べていかない? 私がお茶いれるから」
「……は?」
「お腹がすいてきたかもしれない、いまなら食べられそう。……それとも、なにか用事があった?」
「いや、そうじゃないが、お前は、俺のことが怖く……。いや、なんでもない」
そこで言葉を切ったセノはゆるゆると首を横に振り、手近な椅子に腰掛けた。その間、一度も視線を逸らないでくれたセノの誠実さは、私をひどく安堵させたのだった。
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砂漠の真ん中でセノに拾われたあとは、文字通り右も左もわからないものだから、総てにおいてセノの言うことに従って行動した。まともにぶつけられたら怪我程度では済まないような武器を携えたセノに対する恐れもあったかもしれないが、原理ごとまったく違う世界に迷い込んでしまったという不安が、ひどく強かったのだと思う。さらに、元素力といった不思議な力を扱える人が存在する一方、剣や槍の前ではなにもできない私は大層無力な部類に入るので、いくら住む場所と役割を与えてもらったとしても焦りや不安や恐怖は背中にべったりとくっついており、それは生活に慣れるたびに強くなっていく。
セノが暇な時間を作らないように空回っている私の身を案じてくれる理由がわからないわけではないが、どうしても、なにかしていないと落ち着かないのだ。じっと立ち止まっていると、足下から濃い暗闇に飲まれて私という存在が消え去ってしまうような気がして、ならない。
思いつく限りの家事を済ませた。必要最低限のものしか置いていない部屋の掃除は簡単だった。料理もあまりレパートリーがないのですべてのレシピを試しても時間が余った。眠るにはまだ早すぎる夜だ。他にすべきことが見当たらなかったので、気が進まなかったが、すっかり水分を失って花弁をほとんど失った一輪の花を小さな前庭の芝の上にそっと置く。どういうわけか、セノは定期的に私に花を贈ってくれる。私物が少ないがらんとした部屋に、セノがくれた花だけが鮮やかな色を投げていた。
数日前に指摘された通り私の顔色が悪かったのか、枯れた花を地面に横たえ凝視している光景が異常に見えたのか、数日ぶりに訪れたセノは控えめな声で私の名前を呼んだ。
「……今夜は冷える。早く中に入ったほうがいい」
地面に縫い付けられていた視線が、セノの声に引っ張られるようにして持ち上がる。セノ、と呼びかけようとするが声は音にならず、かわりに、その姿を捉えた瞬間に目の奥が急速に熱くなり、涙がぼろりとこぼれ落ちた。夜空に張り付いていた星々の輪郭が一気に曖昧になる。
「っおい……!」
泣いてしまった、セノの前では久々のことだった。これはまずいことになったと、慌てて立ち上がるも、ずっとしゃがみ込んでいたからか勢いのせいで頭がかき混ぜられ膝がぐらりと揺れる。セノが咄嗟に受け止めてくれなければ、尻餅の一つでもついていただろう。一度だけ体ごときつく抱き込まれてから、腕を掴んだまま胴が離れていった。それから、表情を確かめるように覗き込まれる。
「いきなり立つな。危ないだろう」
泣き顔はいまさら隠せないが悪あがきにセノの肩に額を押し付ける。躊躇うような沈黙のあと、セノの手が私の背中に周り、とんとんと遠慮がちに叩かれる。しかし、すぐにその手は止まり、背骨にぴったりと当てられて、その手もまた離れていった。
「熱があるんじゃないか」
「……え?」
「気がついてないのか? 身体が熱い」
そうなのだろうか、と他人事のような感想を抱きながら、額に手を当ててみるもよくわからない。視線でわからなかったことを伝えるように見やると、セノは自身の前髪を掻き上げてから額同士をくっつけた。確かに、セノの額の方が冷たいような、気がする。鼻がくっつきそうなほど、顔が、近い。
「え。セ、セノ、なに……っ」
遅れてやってくる羞恥に、やはり体調を崩しているのだと自覚する。身を引こうとするが私を拘束するセノの腕は硬くほどけそうもなかった。
「熱があるんだ、眠らないといけない。体調が悪いから気が弱るのか、気が弱ってるから体調を崩したのか……、いずれにせよ体を休ませることだ」
至極真面目な表情を崩さないセノに膝裏に通された腕に体ごと抱き上げられ、家の中に連れられ、ベッドまで運ばれる。肩に布団をかけられるまで、それほどの時間はかからなかった。
砂漠地帯から樹々が生茂る地域に移動するとき、強烈な日差しやひどく歩きにくい足元のせいで早々に疲労し(さらには、大きな蠍に驚いて転倒し足を捻挫する始末だった)、最終的にセノに抱えてもらったことを思い出す。
「……ごめんなさい」
あんなに心配してくれていたのに、結局体調を崩して、迷惑をかけてしまった。以前も今も、足かせにしかなっていない私をセノが放っておかないのはなぜだろうと何回も考えたが、いまだに答えは出せていない。
ベッドの横に腰を下ろしたセノは首を横に振り、私の目尻に指を当てる。目の奥がじんと痛んで熱い。いつの間にか、また泣いていたようだった。
「謝らなくていい。お前がこの数ヶ月間ずっと、不安を抱えていることは、知っている」
今はとにかく、休むべきだ。
何度も何度も涙を拭ってくれるセノはひどく柔らかい声をしている。今は、セノの声だけを聞いていたいと思う。
同じように、熱を出して床に臥せたことがある。あれは砂漠を抜けてキャラバン宿駅になんとか辿り着いたときだった。その頃には私がこの世界で異質で無力な存在だと自覚していたので、眠っている間に、セノはどこかに行ってしまうものだと思っていた。セノが私の面倒を見る義理はなく、むしろ乾いた砂ばかりの砂漠から人が住む場所まで連れてきてくれただけでありがたく思わなくてはいけない。
しかし、予想に反して、セノは四六時中ではないがずっとそばにいて看病までしてくれた。信じられないくらいひどく苦い薬に顔を歪めると、私よりも困った顔をされ、私は不思議な心地でその顔を眺めていた。
浅い眠りの淵だった。おぼろげな意識下で、セノに着替えさせられた気がする。普段であれば恥ずかしがるべき状況だというのに、そんな余裕もなくされるがままになっていた、おそらく。
硬質な音は鍵を締める音だろうか。熱を出すとなぜこんなにも身体が重くなるのだろうと、ままならない関節や筋肉に辟易とする。視線を巡らせてどうにかセノの姿を捉えた。
「すまない。起こしてしまった」
「……どこか、行っていたの?」
熱のせいか、散々泣いたから脳が火照っているのか、セノの輪郭が霞を帯びたようにぼやけて見える。漠然とした視界のせいで、ここにいるのは本当にセノだろうかと恐ろしくなり指を伸ばすと、一片の躊躇いもなく握り込まれた。冷えた指先の温度が少しだけ熱を溶かしてくれたのか、まばたきを何度か繰り返すとセノの綺麗な目がよく見えた。
「ああ。少し、買い物に出ていた」
「そっか……。おかえりなさい」
握られた手を握り返してそう言うと、セノは目を細めてから「ただいま」と応えた。語尾がわずかに揺れていたような気がする。……気のせいかもしれない。
「いくつか果物を買ってきた。それと解熱剤もある」
「え。薬……?」
「……なるべく苦くないものを選んできた。飲めなくはないだろうし、果物の甘みで中和されるだろう」
セノの配慮に満ちた声に、薬を嫌がり駄々をこねているようで恥ずかしくなる。握っていた手を離して布団の中に潜り込ませた。目を瞑っても目が回っているような不安定さに耐えられずすぐに瞼を持ち上げる。セノの困った顔から逃れたいのに、うまくいかない。
せっかく用意してくれたのだからと決意して飲ませてもらった薬は「なるべく苦くないもの」と評価するには苦く、飲み込むのに結構な時間がかかった。セノは初めて私に薬を飲ませたときのように困った顔をしながら背中を何度も摩ってくれる。
「果物を切ろうか」
「……大丈夫、いらないです」
「」
「い、いま、食欲ないの……本当に」
「だが、少しでも食べたほうがいい」
睡眠と栄養が必要だと言い張り、器用に林檎の皮を剥き始める。確かに、甘酸っぱい味は口の中を占めていた苦味を遠ざけた。勧められるまま二切れ食べたら満腹になり、相変わらず重たい身体をベッドに沈めた。
「……辛いか」
着替えをさせてもらって、薬と果物をもらい、布団を直してもらった。休養すればきちんと回復する類の体調不良とはいえ、辛くないといえば嘘になる。それでも、焦りや不安や恐怖は薄れているのだろうと思う。だって、こんなにも安心してベッドに身体を預けることができている。
「私、きっとさっきまで、セノを待っていたんだと思う」
言葉を選びながら、私を見下ろす朝焼け色の目を見つめ返す。
「そしたら、本当に来てくれた。だから、今はもう本当に、大丈夫……」
薬のおかげか、新鮮な林檎のおかげか、指が嫌な熱ではない温かさを生み始める。額に添えられるセノの手のほどよい冷たさが熱い皮膚に心地よく馴染むのもあって、呂律が徐々に怪しくなり、眠気が強まる。
「……ごはん」
「なんだ、腹が減ったのか?」
「昼間に、ごはんをたくさん作っちゃって……。でも、私は食べられそうにないから、セノが嫌じゃなかったら、食べて」
「食事が必要なのは俺じゃなくてのほうだろう」
「でも、私のせいで夜ごはん……、食べてないでしょ」
「……俺の心配じゃなくて、自分の心配をするべきだな」
眠る前に伝えておかなればと気が急き慌てて話したせいで咳き込んでいては格好がつかないけれど、このあとセノが食事を摂ってくれることを私は知っている。
「……セノが」
「俺が?」
「セノが私の心配をしてくれるから、私が、セノの心配をする」
おでこに触れるセノの手のひらが脈を打っているのかと思うほど、どくんどくんとした音が聞こえてくる。新しい熱に全身を塗り替えられていく。吐く息が熱く、眠気がすぐそこにまで来ている。泥に飲まれるような嫌な眠気ではないそれに抗わず、ゆっくりと目を閉じた。
「大丈夫だ、すぐに快くなる。……おやすみ」
頬にかかった横髪を耳にかけられると鼓膜に静かな声が届く。意識が途切れる間際、目尻あたりに柔らかいものが確かにくっついたけど、それがなにか確かめる前に、全身を包む眠気に引きずられるまま深い眠りに沈んでいった。