今朝、しばらくは買いに出なくても困らないであろう量を備蓄していたはずのジャムが、底を尽きた。パンにベリーのジャムを塗りつけているときであった。あ、と声が漏れ出て、瓶の内壁にスプーンを擦り付けてどうにか最後まで掬い出す。

「……なくなったのか」

 紅茶に溶かしてひとりで楽しむには、もったいない量と種類であった。気まぐれにパンをこねて焼いたらそれなりに美味しくでき、カーヴェがたいそう喜んでくれたのもあって、ジャムを消費するスピードは格段に上がった。さらに、アルハイゼンも「読書がしやすくて良い」とわけのわからないことを言いながら、ときどきはパンを要求してきたので、つまるところ三人がかりで食べたこととなる。

「忘れないうちに買いに行こうと思う」

 ベリーを塗りたくられたパンを「食べる?」と差し出すが、「必要ない」とにべもなく返される。甘酸っぱい香りを引き寄せ、そういえば、ひとりで買い物に出かけるのは久しぶりだな、とぼんやりと考える。

「俺は、今日は休日だ。きみに付き添うことにしよう」
「……え?」

 なぜ、と疑問を投げかけるのは、さすがに失礼かもしれないと、言葉が出る寸前で留める。しかし、幸か不幸か頭の回転が速いおかげで察しのよいアルハイゼンには続きの予測などたやすく、「不満げだが、きみはあれ以来、あの店に出かけてないだろう。無事完遂できるのか?」と硬い声で仰々しく言われれば、反論の余地は塗り潰されてしまう。
 たくさんのジャムと綺麗な櫛を贈られた日に指摘された通り、被害に遭った場に出かけると、当時の状況を思い出して体調に影響が出るのか……いまだにあの場に足を運んでいないため、正しい判断はできない。

「一緒に来てくれるのは、ありがたいんだけど」

 アルハイゼンなりに同居している人間を気にかけてくれているのだと、先日思い知ったばかりである。無碍にするつもりはない。それでも、すんなりと肯けないのは、外での彼の行動に由来する。

「なんだ。言いたいことがあるなら言えばいいだろう」
「……あれはやめてほしいなって」
「〝あれ〟に該当する案件を具体的に示してもらわない限り、納得しない」
「だから、その。外で、私に微笑みかけたりすること」

 瞠目し、眉をぴくりと持ち上げる。前々から意見しようと考えていた事柄を、ようやく伝えられて、知らぬ間に緊張で水気を失い乾ききった喉に、お茶を流し込む。

「外では夫婦らしく振る舞うと契約したはずだが、何か問題でもあるのか」
「家の中では……私たち、たいていは、別々に過ごすでしょう。だから、外に出た途端に手を握られたり、笑いかけられたりすると、違和感がすごいの」

 今度は、なるほど、と腑に落ちた様子である。それもそのはずで、アルハイゼンの考える「夫婦らしい」行為に同調しているのみである私は、率先して無理に触れ合おうとはしていなかった。アルハイゼンに演技をしている自覚があり、彼もまた、少なからず違和感を抱えていたのだろう。
 無理に笑わずとも、アルハイゼンの表情筋は生きてひとりでに動くのだと、この間知った。笑いかけてくれるなら、結婚が一年を経過したときに贈り物をすると言ったときみたいに、無理をせずに自然としてくれる方がよっぽど嬉しい。

「それに、私たちの結婚を知る教令院の人も、結婚生活は順調だって言ってるって、カーヴェから聞いたの。だから、もうわざとそういうことをしなくても、きっと大丈夫。ああいうのは、もっと自然でいいんだと思う」

 付け加えると、契約は「夫婦らしく振る舞うこと」であるから、多少触れ合いや会話の頻度を減らしたところで、違反にはならない。
 それにしても、婚姻前に契約について話し合っているとき以来長く会話をしているというのも、妙な状況である。

「なるほど、きみの意見は一理ある。了承した」

 アルハイゼンの決裁をもって、かくして私の要望は採用された。





 それみたことかとは、言われなかった。アルハイゼンには人にまさった位置に立って見下ろす趣味はないはずだから、純粋な気遣いのもと、同行してくれているのだろう。だが、私のなかの被害的な部分が、責められるのではないかと恐れて、どうしようもなく縮み上がってしまった。
 いざ、強い力で突き飛ばされた拍子に膝を裂いた場に至ると、不思議と、歩みがぴたりと止まり、喉がひくりと震えた。二歩先で立ち止まったアルハイゼンは振り向きつつ「今日は帰るか」と提案するが、休日の貴重な時間を割いて外出をさせているから、気が咎めて、首を横に振って小さく一歩を踏み出す。不自然ではない頃合いで手を握られる。「これは自然だろう」と淡々と告げる声に特別な温度は見受けられず、かえってほっとして、「自然だと思います」と返答したときの妙な満足げな表情がおかしくて、足の強張りがとけて歩みが再開される。

「今日は奥方様といらしたんですね」

 店に到着するころには、鉛のようにつきまとっていた足の重さも取れ、ままならなくなると思われた呼吸も正常に戻っていたが、店の従業員に「奥方様」と呼ばれ、言葉に詰まる。ビマリスタンで研修医に呼ばれたのが遠い過去のようだ。あのときのように指先は震えなかったが、口の端はひくりと動いたかもしれない。
 先日、奥方様のためにと、すべての種類のジャムをお買い上げいただき……。
 店員さんがアルハイゼンが買い物に来た様子について説明を重ねれば重ねるほど、どんどん気が遠くなっていく。誰に宛てたものかなど正直に打ち明けずに購入する手段は他にもあっただろうに、きちんと包み隠さず私に宛てたものだと打ち明けたのか、……意外だ。

「……おくがたさま」

 ジャムの瓶や焼き菓子が敷き詰められた甘く狭い店内で、店員さんが奥に捌けたあとに、思わずぼそりと溢す。目敏く呟きを拾い上げたアルハイゼンが長身を丸め、耳に口を近づけて声量を落とす。

「なんだ、きみを他にどう表現すればいい」
「まだなにも言ってないよ」
「それなら不満そうな顔をするな」
「ふ、不満そう? びっくりしただけ……アルハイゼン、近い……」

 耳たぶに息が吹きかかり、うぶ毛が粟立つ。背筋までもがむず痒く反応する。夫婦なのだから、遠過ぎてもいただけないが、近すぎるのも考えものだろうと、アルハイゼンの顔を遠ざけるように一二歩離れるも、すかさず手を引っ張られて戻される。なんなんだ、と心の裡で反論しつつも、握力の差は歴然で振り払えるはずもなく、店を出るまでなぜか手を繋いだままであった。

「きみの好きなものを知れたのは収穫だった」

 昼下がりの人通りが多い街を、人混みを縫いながら手を繋いで歩いている。いつ手を離されるのか、いまか、と伺ってもとうとう手は離されず、寄り道の予定もなく、あとは帰るのみとなった。
 もとより活発に外出を楽しむ性質は互いに薄く、数少ない外出も人目を気にした形式ばったものばかりだった。好みの味はどれかだとか、なにげない会話をしながらの買い物は、儀式的におこなわれる外出よりもずっとよいもので、意識せずに心が浮ついていく。

「アルハイゼンは何が好きなの」

 心にともない、滑り出た声も一寸ほど弾んでいる。半年以上もの期間を一緒に生活しているとは思えぬほど、アルハイゼンに詳しくない私は、人が聞いたら目を剥きそうな初歩的な質問を投げかける。

「定義が広すぎる。限定してくれ」

 呆れもせず、至極まじめな返答が寄越された。

「食べ物の好みはなんとなくわかってきたから……。好きな場所とか?」
「なるほど」

 香りでも、色でも、季節でもよかったが、いかんせん知らないことが多過ぎる。ひとまずは一番に思いついたものを採用すると、アルハイゼンはさして迷った様子もなく、表情を変えずに、手をぎゅっと握り込んでくる。
 
「俺は、家が好きだ」

 手を離されるなど、とんでもない。家までこうなのだろうと、予感がその輪郭をうんとくっきりさせていく。「家が好きなのは知ってるよ」と首を傾げている私に、アルハイゼンは「そうか」と、ただただゆったりと穏やかに告げたのだった。