風邪ともつかないアルハイゼンの軽い体調不良は翌日にはすっかりと癒え、私の助けなど必要とせずとも、きちんと朝食を用意して食べていたので、すべてが夢ではないかと疑ってかかるほどだった。もちろん、弱々しい声で告げられた発言のすべてに関して言及はなく、お互いに触れず触れられず、なんてことのない日常が簡単に取り戻されている。


「午後から出かけてくる」

 朝食の席で報告された予定に、そう、と短く応える。晴れでも雨でも、暑くても寒くても、天候がどうであれ、休日は家で静かに過ごすことの多いアルハイゼンが敢えて出かけるなど珍しい……本日に関しては同行は求められなかったので、気まぐれに連れ出される類のお出かけではないようだ。彼が独りで出かけなければならない場が存在する事実に、内心驚く。
 十分に蒸された茶葉が強く香っている。器にとろとろと紅茶を注ぎ、テーブルの上のミルクを引き寄せる。好んで紅茶に溶かし入れていたジャムは、先日切らしてしまっていた。

「きみの予定は」

 茶匙で掬ったミルクは紅茶の表面に落ち、じわりと端から馴染んでいく。

「今日はずっと家にいると思う」

 同じ家で別々に生活しているような結婚生活だった。少なくとも、数ヶ月前まではそう表現するのが自然だった。だから、予定を尋ねられるとは思わずに動揺するのも無理はなく、茶匙をかき混ぜてから一拍も二拍も遅れて返事をする。なぜかその一部始終をじっと見ていたアルハイゼンは「了解した」と珍しくもない淡白な口調で返した。


 先日まで翻訳の仕事で忙しくしていたが、元来、さほど多くの仕事を請け負う力量もないもので、いっときを過ぎれば時間に余裕はでき、夕食の準備を済ませてしまえばあとは暇を持て余すのみである。
 実家には、家族の他に、住み込みのハウスメイドと私的に雇った傭兵がいた。常からひとりきりになる時間は少なく、進路が定まらないがために父のあたたかな心配を受け止めている最中は、人々の視線が鋭いものになっているように思え、いっそう私の胸のうちを落ち着かなくさせた。生まれてから数ヶ月前まで人に囲まれた暮らしをしていたから、アルハイゼンの家がとても静かに感じるのも、もっともだった。家主と、家主のルームメイトが不在になると、静けさはより色が濃くなる。
 懐かしむのをやめるのは難しい。アルハイゼンの家よりも実家での生活が長いのは当たり前であり、双方の違いが明白であればあるほど、懐古の機会に恵まれる。アルハイゼンの家にないものを実家に見出し、また、実家では得られなかったものを、アルハイゼンの家で手に入れているからだ。それはこの家の静けさもそうであるし、人に干渉されない日常も、そうだと思う。


 夢のうつつに、実家での生活を垣間見た。意識が浮上していくにつれて、それとは違った匂いと、景色が舞い戻る。アルハイゼンの家だ。
 リビングの片付けや掃除はカーヴェがおおかた済ませてしまっていたので、果物や書物、父からの手紙などで雑然としたテーブルの上を片付けようかと考えていたのに、書物に目を通しているうちにまぶたが重くなり、とうとうソファに体を横たえるまでになったのを、ようやく思い出す。

「そんなところで寝るな。風邪を引くだろう」

 無秩序を描く散らかった机を挟み、向かいのソファの脇に設置されたぼやけた小さな照明の近くに、アルハイゼンがいた。日が傾き、室内にはすっかり夜の気配が満ちている。
 薄暗い場所で細かい文字を追っているようでは視力を悪くするのではないかと、見当違いなことを考えながら、本を閉じたアルハイゼンが照明を点けるため立ち上がるのを見つめ、体にかけられていた毛布の存在に気付き、上体を起こしつつもそれを胸元に引き寄せた。

「……帰っていたの」

 この家には、リビングの他に、アルハイゼンの寝室や、書斎など、他にもひとりになれる部屋があり、空間を共有したがらないアルハイゼンは、私が眠るリビングを読書の場として設定する必要はない。それなのに、私が目を覚ましてもアルハイゼンはこの場から離れる気配はなく、「きみに用があったから、目覚めるのを待っていた」と、あろうことか、隣に移動して座り、懐から取り出した物を差し出した。

「……用って?」
「これをきみに」

 やわらかな布張りの箱を手渡され、勧められてもいないが、好奇心に操縦された指先でそろそろと中身を確かめる。箱の中には、白い櫛が静かに居座っていた。
 つるんとした表面は光を受けると角度によって黄色や水色、橙色、紫色を帯びる。まるで鉱石のようなそれは、髪を梳かすための形をして、私の手のひらの上にあった。

「これを、私に?」
「そうだ」
「本当に?」
「……不要なら俺が引き取る」

 憮然としたように口を引き結ぶアルハイゼンはそれ以上なにも言わず、しかし読書は再開されず、書物はテーブルの上に除けられたままであった。
 いらないなんて言っていない、日用品ではないものを贈られたというこれまでにない出来事にびっくりしただけだと言い訳をするが、それでもなぜ、と思わざるを得ない。わざわざ休日に出かけてまでこれを買いに行ったのは、私が彼に食事を提供した際に儀礼的に渡される「お礼」なのかと、不思議に思っているだけなのだ。

「違う。婚姻から半年経つとか、いくつか理由はあるが……。これに関しては、視界に入ったからだという方が、正しい。さらに言うと、礼は、こっちの方だ」

 雑然としたテーブルの上で完璧に溶け込み、いっそのことひとつの調度品としてそこにあった紙袋の重量に驚き、次いで中身を見たとき喉から小さく声が上がった。

「本当にどうして」

 混じり気のない疑問が、素直な言葉となる。あの日、この店のジャムを買いに出かけなければ、人に襲撃され怪我を負うことはなかった。怪我を負わなければ、アルハイゼンはこの家で私の肌に触れなどしなかっただろう。取るに足らない言葉を交わすことも、アルハイゼンが私の料理を食べることも、きっとありえないはずの出来事だったはずだ。
 すべての始まりとなり得たジャムの瓶はひとつではない。ひとつ、ふたつ、みっつ……。次々と取り出されるジャムの種類は十で打ち止めとなる。ひとつとして同じ味はない。
 アルハイゼンの長い指がジャムの瓶を撫でるのを、信じがたい思いを抱えたまま見ている。どうして、と掠れた声くらいは出たかもしれなかった。

「あれ以来、きみはジャムを買いに出かけていないだろう。あの場に足を運べなくなったというのは、俺の憶測に過ぎないか」
「……そうなのかな。行きたいって思わなかったから、気付かなかった」

 底が見えかけても、空になった透明な瓶を洗っていても、新しいものを買いに出かけようとは到底思えず、それこそがアルハイゼンの憶測を真実として成り立たせかねない。必ずしもジャムがなければ暮らしが立ち行かないというほどではないが、「買いに行かない」ことと「買いに行けない」ことは、まったく違った意味合いを持っている。

「そうかも……。うん、多分、アルハイゼンの言う通りかもしれない……」

 あの夜、ビマリスタンの隅で足元に蹲み込んだアルハイゼンは、俺のせいだ、と言った。アルハイゼンの双眸が揺れたのをありありと思い出す。記憶力に長けた彼がいらぬ責任を感じてはいけないと、無用な心配かもしれないことを切に願いながら、肯定しつつもどうにか言葉の端をかき集める。

「思い出して怖くなったり、夢に見たりとか、そういうことはないから、平気です。今はまだ少し、気持ちの整理が終わっていないだけだと思う」

 場所と記憶が結びつき、出来事が強く心に残り、立ち竦んでしまうのは、不自然ではない現象のはずだ。それは、日々を過ごしていくうちに薄れていくはずの、少し強く残ってしまっただけの記憶。

「万が一、体調などに変化があればすぐに報せるんだ」
「……うん。だけど、どうしてこんなにたくさん買ってきたの」
「俺はきみの好みを詳細に把握しているわけではないから、在庫のあるものをすべて購入してきた」

 理知的であるのに、やたらと大胆な行動を取るものだと、夫なる人物の新たな一面を目の当たりにして、胸が焼ける思いがする。
 このジャムが「先日の礼」で、鉱石めいたうつくしい文様の櫛が「婚姻から半年経ったのもあり、たまたま目に入って手に取った」という意味で正解だとしたら、多くのものを与えられている生活が、現在もなお目の前を漂っている。

「そしたら、一年の贈り物は、私から……」

 恐ろしいほどにすんなりと口から滑り出た「一年」を遅れて反芻し、目を丸くするアルハイゼンの表情が変容していく様子に、驚きが幾重にも分厚くなる。
 記憶が正しければ、屋外で演技を含んだ笑みを見せるときを除くと、アルハイゼンがまるで微笑んでいるかのように表情を弛めたのは、初めてである。
 やたらと呼吸が苦しくなる。視線の置き場に迷った末に、布張りの箱を抱えた私の手の上に重なる大きな手を見つめている。箱の中には半年分の重みが在るのを、確かに感じている。