婚姻を結び、アルハイゼンの家に自室を与えられるのをきっかけに、いくつかの私物を新しく購入した。とはいえ、大型の家具はすでに揃えられていたので、シーツや枕、食器など細々としたものを用意するだけで引っ越しは簡単に済み、足りないものは「なにか必要なものはあるか」とやたらと訊ねてくるアルハイゼンが、大抵のものはその日のうちに手配してくれたので、あたたかな情を通わせないにせよ、ぬるま湯に甘やかされているような生活を営んでいるという事実は否めない。


 怪我を負い、アルハイゼンに包帯を交換してもらう日々を経て、稀に、アルハイゼンと食事を摂るようになった。余った夕食を勧めたのをきっかけに、同じ食卓についていながらもそれぞれが好きなように調理し、各自違う料理を食べるという習慣は、ゆるやかに崩れつつある。

「きみたちの結婚生活は至って順調だと、教令院では囁かれているぞ」

 カーヴェによると、そういうことらしい。つまり、他者の目を欺くため、人の目がある場では夫婦らしく振る舞っている成果が発揮されているのだろう。アルハイゼンが考える「夫らしさ」が正当かどうかはともかく、「仲の良い夫婦」という印象を植え付けるには十分である。家庭内では部屋を分けている上に、ほとんど会話をしていないとは悟られてはいないはずだ。

「なんでも、きみにかすり傷ひとつできただけでアルハイゼンは青ざめて、きみのもとに走り寄り、抱きあげて家に帰っていったのだとか」
「ええっ。尾鰭がすごい」

 人付き合いの良いカーヴェが持ち帰ってきた教令院の噂話は、一点を除けばべったりと脚色されていた。あの日の怪我は、かすり傷よりはまあまあ重傷で、アルハイゼンは青ざめてはおらず、手を繋ぎはしたが抱き上げられてなどいない。
 噂は身勝手に生まれてふくらみ、そのうちに消える。やたらと仲の良い夫婦のように扱われるのはむず痒いが、険悪な仲であると評されようものなら、所詮は家柄による結婚だと囁かれかねないので、まだましだと思う。事実、アルハイゼンが家柄を持ち合わせていない私と婚姻を結ぶなどありえない。だとしても、アルハイゼンに不名誉な噂がこびりつくのだけは避けたかったし、アルハイゼン自身もそうだろう。


 よほどのイレギュラーがない限り定刻通りに仕事を終わらせるアルハイゼンは、酒場などに寄り道をせずに、おおむねまっすぐに帰宅する。来客がほとんどないこの家に、決まった時間に規則正しく帰ってくるので、足音にも、扉を開く静かな音にも、知らず知らずに、耳が慣れてしまった。だから、わずかでも違和感があれば、すぐに気づけるようになったのだと思う。
 ただいま、と言う声のかすれ方、緩慢に外套を脱ぐ様子、それを自室に持っていこうとして、しかし諦めたかのように、ソファの背もたれにぱさりと掛けるゆっくりとした動作。

「アルハイゼン?」

 いつも通りの寧静とした表情に、いくつかの違和感を集合させたアルハイゼンは、呼びかけにやっぱりのっそりと視線を上げる。

「どうかしたの?」

 まばたきのまつげを叩く動きすら、鈍くどんよりとしているような気がしてならない。

「どうか、とは」
「体調が悪いのかなって……。違うなら、いいんだけど」

 アルハイゼンは目を見開く。ただし、それは一瞬間の出来事で、すぐに元の表情を取り戻したアルハイゼンは「そうだ、だが問題はない」とかぶりを振った。予測が当たっていたとしても、認めて教えてくれるとは思っていなかったので、私の方が驚き、目を見開いてしまう。

「医者にかかるほどではない。一晩休めば回復できるだろう」

 体調を崩しているとは思えないほど、冷静に客観視し、評価し、方針をさだめている。これまでずっとそうやってひとりで小さな病を乗り越えてきたかのような、慣れを感じさせるやり方と、語り口であった。
 いくら万全に体調管理をしていたとしても、疲労や気温の変化、その他諸々の要素によって、体調を崩すことはあるだろう。周囲に察知される機会がほとんどないだけで、アルハイゼンも例外ではないはずだ。

「野菜のスープならあるけど、眠る前に食べる?」

 先日、アルハイゼンに頼まれて、シャフリサブスシチューを作った。その際、張り切って多めに買い込んだ野菜が余っており、今日は遅くまで翻訳の仕事にかかる心づもりがあったから、夜食として胃に優しい野菜スープを作っておいたのだった。偶然ではあるが、香辛料も控えめにしているし、病人が食べても差し支えないだろう。アルハイゼンは汁気のある食べ物を好まなかったと記憶しているが、他に消化の良い食べ物を今すぐ用意はできないので、苦手な理由が味ではないのなら、我慢してもらうしかない。
 大きなソファに腰掛けるアルハイゼンの視線はぼうっとしている。ひとりですべてを済ませてしまえる強さと能力を持ちあわせている人間が弱っている姿は、鳩尾に鈍い痛みを走らせた。
 返事を待たずしてキッチンへ行き、器に琥珀色のスープを注ぐ。もう一度大きな匙を鍋に沈め、一際やわらかく煮込まれた人参とキャベツを掬った。

「これ、私が風邪ひいたときに実家でよく出してもらってたスープなの」

 いらなかったら私が食べるけど、と言って、器とスプーンを乗せたお盆を渡すと、案外すんなりと受け取るので、食べる意思を確認し、密かに安堵する。

「……きみが」
「うん?」
「きみが、食べさせてくれるのか」
「え? ああ、うん……?」

 この発言は、明瞭な意識のもとで発せられているのか、体調悪化によるものなのか、どちらなのだろう。まるで、飲酒して酔ったカーヴェのようだ。彼は、二日酔いの朝は決まってぐったりとして、あたたかい飲み物を飲ませてくれと強請るのだ。いつもアルハイゼンは書物を片手に眉を顰めてこちらを注視している。だが、いまはアルハイゼンと私の二人きりで、ぐったりとしているのはカーヴェではなかった。

「俺には、きみはここでの生活に慣れてきているように、見えていた」

 適度に冷めているはずのスープが薄い湯気を立ち上らせている。その向こう側で、じっと噛み合う視線に引っ張られている。みじろぎも、まばたきも、封じられている。

「だが、未だに家を懐かしむことが……」

 アルハイゼンが所有し私が住まうこの家ではない「家」を指しているのは、すぐに理解できた。いよいよもって疑惑で埋め尽くされ反応できないでいたが、アルハイゼンが口を噤むのをきっかけにして、ようやく視線が逸らされる。同時に、身体中に張り巡らされていた緊張がふとほどけて、力の抜けた腰はソファに深く深く沈んでいった。
 包帯を替えてくれたり、食事を一緒に摂ったり、体調不良を打ち明けてくれたりと、当初よりは歩み寄れていると判断しても問題は起きないだろう。
 どうにでもなれという思いであった。スプーンを掴み、スープを掬って口元に持っていく。かわいらしい掛け声をするのは憚られ、寸でのところで怖気ついた私は「どうぞ……」とぎこちなく言った。もとより、アルハイゼンが「きみが食べさせてくれるのか」と真意のわからないことを言ったのだ。それなら、これくらいの羞恥は受け入れるべきなのだ。
 つまらないことに、アルハイゼンは一片も照れはしなかったが、どこか苦々しい顔をして、あ、と口を開けた。そこから覗く赤い舌を認めると、脳がじりじりと焼ける音がした。

「今夜は、遅くまで仕事をするつもりだから。……なにか欲しいものがあったら、言いにきてね」

 野菜が溶け込み甘みを含んだスープの湯気の向こう側にいた瞳が、あどけなさを含み、それが迷子の子どものように見えたのだけれど、きっと、気のせいだろう。