先日負った怪我をきっかけに、門限と行動範囲の制限を与えられ、それにしたがって慎ましく生活しているうちに、膝にできた傷は順調に癒えていったのだった。「カーヴェに包帯の世話をさせるな」と命じたアルハイゼンは、宣言通り毎日私の包帯を交換し、傷口を清潔に保たせてくれた。手当ては親切心によるものというよりは、ある種の拘りがアルハイゼンの行動を手助けしているように思える。それほどまでに、彼の表情には変化はなく、効率のみを重視しているかのような要領の良さであった。
日常に傷の手当てという項目が一つだけ増えたが、暮らしの流れは以前と比較しても変わりなく滔々と流れていく。ときどき翻訳の仕事をするのみである私は、家の外で仕事をする必要がなく、不便さはちっとも感じず、アルハイゼンの目的である「私がどこか知らないところで余計な事件に巻き込まれないようにする」についても達成されただろう。
繁忙期を過ぎたらしいアルハイゼンの帰宅は久々に早く、共に過ごす時間の長さを思うと少しばかり居心地が悪く感じる。こういうときに居てくれるべきカーヴェは泊まりがけの仕事に出かけてしまっているから、空気は一段と重くなるばかりなのだった。
「えーと……。どうかしましたか……」
夕飯を終え、家のリビングルームで仕事を片付けていると、帰宅するなり自室に引き揚げていったはずのアルハイゼンが姿をあらわした。飲み物か食べ物を取りに来たのかと気に留めていないでいると、よもや私のそばに立ち手元をじっと見つめ始めるではないか。これには困らされた。ただでさえ時間がかかる作業だというのに、絶え間なく見られているようではひとつも捗らず、ついにこちらから声をかけてしまう。
「気にする必要はない。きみが仕事している姿を見ているだけだ」
基本的には決められた時間内で労働を済ませるアルハイゼンとは違い、一つのことにだらだらと時間をかけてしまう私は、彼の澄んだ目には愚かなものとして映っているに違いない。アルハイゼンと私の間に明確な優劣の差があると自覚するたびに、形式のみとはいえ、夫婦という関係がひどくおさまりの悪いものに感じてならず、申し訳なさが先立って、実家に戻るという選択肢が脳裏に浮かび上がってくる。
「夕飯が余っているんだけど、食べる?」
腫れぼったい沈黙と見られている緊張感を和らげるための問いかけは、夫婦生活が始まって以来、私の手料理を食べたことのないはずの彼にきちんと拾われた。
「余っているのか、それならもらおう」
「……え? 私が作った料理を食べるの?」
「そうだと言っている。きみが提案したんだろう、やはりやめておくなどと言うつもりではないだろうな」
「いや……じゃあ、用意するから少し待ってて」
「きみを煩わせるつもりはない。食事の用意くらい自分でできるから、そのまま仕事を続けるといい」
夕飯のメニューのみを聞き取ったアルハイゼンがキッチンで食事の用意をしている音がする。屋外ではないし、人の目もない。夫婦らしく振る舞う必要はなく、彼は彼のしたいように生活するべきなのだ。
一方で、あの晩、人目がないというのに私の足元にしゃがみこんで、膝に触れてきたことを思い出す。婚姻に係る決まりごとはほとんどアルハイゼンが提案し、私が受け容れたものではあるから……すべての行為はアルハイゼンの意思で、以前も今も、したいようにしているだけなのだろうか。
いくら考えたところで答えなど出ず、仕事の手を完璧に止めたまま思考を縺れさせていると、テーブルの上に器が置かれる硬質な音がして、考え事さえも中断させられた。
「夕飯の礼だ」
料理の苦情がないことに密かに安堵して、砂糖が溶かされた甘くて温かいミルクを促されるまま飲む。アルハイゼンは夕食を摂る前もそうしていたようにじっと眺めてくるが、視線を逸らすための言い訳は一言も思いつかなかった。甘い液体が喉を通り、内側からお腹を温める。少しは緊張をほぐした喉が、普通のことだからお礼なんていいのに、と自然な感想を違和感なく溢した。
「俺はきみに家事を負担させる嗜好は持ち合わせていない。そもそも、契約に家事の義務は含まれていない。だとしたら、礼をするのが妥当だろう」
「……はあ」
「だが、きみが作った料理を食べるという行為は、悪くなかった」
つらつらと連なる平坦な語り口に気を取られているうちに、ぐんと迫った顔が今にも鼻と鼻をくっつけかねない位置に在った。私の顔に彼の好奇心を刺激する要素があるとは思えないが、注がれる視線は彼が書物に向けるときのそれと、どこか似ている。あまりの近距離に耐えきれず肩を押せば、アルハイゼンは素直に詰めていた距離を元通りにしたものの、離れ際に大きな手のひらで頬を包んでくるのであった。
「時々で良いが、俺のために、料理を作ってくれ。礼はする」
大きな手が、するりと頬を撫でたあとに横髪を耳にかけ、アルハイゼンのせいで火照り始めた耳のてっぺんを晒す。怪我は治ってしまったというのに、手当てをしてもらっていた日々の名残があるのか、数週間前は有り得なかった皮膚の触れ合いが、私が羞恥を感じようが感じまいが、アルハイゼンのペースで実行されている。
この場にカーヴェがいたら夫婦関係をどう評価するのだろうか……。現実逃避がてら不在の同居人に思いを馳せつつ、アルハイゼンに対してどうにか首肯で返事をすると、満足げに口角を上げてから、今度こそ手が離れていった。