屋外など人の目がある場では夫婦らしく振る舞うこと、婚姻関係が継続している間は一切の不貞行為を禁止すること、契約を破棄する際は話し合いを行い双方の意思を確認すること。その他、いくつかの細かい決まり事の上に、私とアルハイゼンの作り物の夫婦関係は空虚に成り立っている。
ビマリスタンの隅で木製の椅子に腰掛け、白々しい照明が投げられた数歩先の床を薄暗い物陰で眺めながら、アルハイゼンとの約束を反芻する。包帯の下にじくじくと痛む膝があるだけで重傷というわけではないのに、手当てをしてくれた研修医にベッドに寝かされそうになって慌てて拒否をした。「書記官が来るまでお休みになってください」という優しい言葉に付随する「奥方様」という私を指す言葉は、たしかに、私の指先をかたかたと震えさせた。書類上だけの夫婦であるため、他の人に彼と私の関係をはっきりと言葉にされると、ちっとも落ち着かないのだ。
今朝、いつも通りカーヴェと自分の分の朝食を用意して食卓につくと、アルハイゼンは私が作った料理を一瞥して、すぐに食事に戻った。
「……食べる?」
「不要だ」
一応訊いてみるが愛想のかけらもない返事に話しかけなければよかったと後悔した。不満ごと人参のサラダを飲み下して「今日はジャムを買いに出かける」と事務的に予定を伝える。アルハイゼンは一応視線を寄越して「すまないが、夜まで仕事があるから同行できない」と必要事項を連ねすぐに自身で用意した朝食に取り掛かる。一緒に来てくれなくても困ることはなにもないのだが、彼と交わした「人の目がある場では夫婦らしく振る舞う」という項目を犯しかねないのかもしれない。「すまない」という情を微塵も含まない声に、そう、と短く返して、アルハイゼンが出かけたらカーヴェを眠りから覚まそうと脳内で予定を立てていく。
「そういえば、きみのお父さまから手紙が届いていたよ」
アルハイゼンが仕事に出かけてから予定通りにカーヴェを寝坊から起こして朝食を食べさせていると、父からの手紙があるらしい棚の一角を指しながら「お父さまはきみとアルハイゼンとの夫婦生活が心配なんだろう」と透き通った赤い瞳を細めて笑う。アルハイゼンとの結婚生活を開始して一番驚いたのは、アルハイゼンの自宅に居候がいたことである。今となれば、アルハイゼンと二人だけで生活をするよりは、カーヴェがいてくれた方が気が紛れて良いので、結果として助かっている。それはきっと、アルハイゼンもそうだろう。
「アルハイゼンの夫っぷりはいまいちだからな」
「私とアルハイゼンの結婚の話をもってきたのはそのお父さまなのだけど」
さほど頭の出来が良くないなりにどうにか努力をしてハルヴァタット学院の課程を終えたのはいいものの、学者として独り立ちするほどの知的好奇心や能力は兼ね揃えてはおらず、家督は優秀な兄が継ぐことに決まっていたので、私の進路は宙ぶらりんの状態だった。ぶらぶらと所在なく浮かんでいた私を不憫に思った父の頭の中でなにが起こったのか知る由もないが、「結婚相手」として見繕われたのはかつての先輩だったアルハイゼンで、結婚とは無縁そうなアルハイゼンが家名しか取り柄のない私と結婚などするはずがない、どうせ門前払いされるだろう……と高を括っていたが、推測は綺麗に外れ、気がついたらとんとん拍子で婚姻関係が結ばれていた。ほんとうに、間の抜けたことだった。
「利害が一致した。不満があるようなら、きみから断ってくれ」
婚姻前の何度目かの話し合いを要約すると、この結婚はアルハイゼンの学者生命が得することと、私の家がうまくいくことを意味するらしい。父に加えてアルハイゼンの頭の中でなにが起きているのか理解が及ばず、さして私に興味がなさそうなアルハイゼンと形式だけの結婚をするに至ったのである。
「だが、外でのアルハイゼンは役者めいていて面白い。そのうち、きみの足元に跪いて愛を囁くくらいのことはするんじゃないか?」
「……みんな、本当にどうかしてる」
面白がっているカーヴェを睨んだものの、実際に人の目がある場でのアルハイゼンは私の手を握り、私の名前を呼び、ときどき微笑んでみせる。その切り替えの精度にいつも二の句が継げない。
「そうだな、アルハイゼンはどうかしている。だが、あれはああ見えてが傷ついているところを見るのが好きじゃない……。とにかく、彼がきみを危害を与えることはきっとないだろう。それに、万が一アルハイゼンがきみを害するようなら、僕が彼を叱りつけてやるさ」
寝癖付きのカーヴェは、ふん、と鼻を鳴らして笑った。
設計図に取り組み始めたカーヴェを残して家を出てから、アルハイゼンに伝えたとおりジャムを購入できたのはいいが、ひったくりに突き飛ばされて膝をしたたかに打ち付け、怪我をしてしまった。突然のことに呆然としている間に、傭兵がひったくりを取り押さえ、もう一人の傭兵が転んだままの私を助け起こし、皮膚が切れてだらだらと血を流し始めた膝の手当てのためにビマリスタンに連れていかれるまで、一言も発せられなかった。無理に声を出そうとすると、なぜか、アルハイゼンの名前を呼びそうになって、喉が詰まったのだ。
血の気が失われていき、かちこちに固まっている私からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、作り物の妻である私を取り囲む人たちからも一様に血の気が失せていった。申し訳ない気持ちはあるのに、このときばかりは傷の痛みと恐怖に支配されていたので口を閉じる他なかった。
奥方様、書記官をお呼びしております。しばらくこちらでお待ちください。なにか必要なものがあればーー。
消毒された傷口が包帯で隠される頃には「はい」とか「ありがとうございます」とか言えるまでには回復し、「奥方様」という呼び方に背筋を凍らせ、ビマリスタンの片隅の置物らしく息を殺してアルハイゼンを待つ。夜半すぎの帰宅も珍しくないアルハイゼンが、果たしてこの程度の呼び出しに応じるのだろうかと不安が芽生え始めたときだろうか、遠くから駆けて近づいてくる人物が彼であるという事実に、純粋に驚く。アルハイゼンって走れたの、という言葉が人に拾われたらまずいのかもしれないと、わずかに残った冷静な部分が教えてくれたので、口を噤んだ。
「すまなかった。これは、俺の責任だ」
え、と空気混じりの声が漏れ出た。謝罪の後にそのまま長い足を折り曲げ地面に膝をつき、背中を丸めて、椅子に座る私の包帯が巻かれていない方の膝に額を押し付けた。愛の言葉は囁きそうにもないが、カーヴェが言うところの「足元に跪く」が現在進行形で実現されて、膝に感じる重みに、気が遠くなる。
「俺のせいできみを危険な目に遭わせてしまった」
「……アルハイゼンのせいじゃないよ」
からからに乾いた喉からぎこちなく声を絞り出した。アルハイゼンが同行していたら怪我は免れたかもしれないが、だからといって、買い物に同行しなかったことが怪我に直接繋がるはずはない。やはり、アルハイゼンの考え方は高度で理解しづらい。
照明のある場にいる研修医が遠慮がちに盗み見してくるおかげで、アルハイゼンがここにやってきたときのように駆け足で逃げ出したくなる。だけど、アルハイゼンの顔を見たときに切れてしまった緊張の糸が私の体から力を抜けさせたせいで、立ち上がれそうにもない。
夫婦らしさというのはなんだろうかと、とりあえず目の前に差し出された頭に触れると、存外柔らかい髪が指の間をくすぐる。家で髪を撫でようものなら即座に振り払われていただろうに、抵抗などせず、私の前で大きな体を丸め、されるがままになっている。膝に触れるわずかに汗ばんだおでこからじわじわと体温が移ったことで、指先の震えがとまり、凍ったままだった背筋がとけて、ようやく「帰りたい」と思えるようになった。
「ああ、そうだな。帰ろう」
肩を叩いてそれを伝えると、私の膝からおでこを離した。薄い髪の間から、恐れを孕んでいるのではないかとさえ思わせる揺れた双眸がこちらを見上げた。
冷えた指先ごと大きな手に握り込まれて、周囲に人の目がなくなっても、手を繋いだまま歩いて帰った。夜も更けてきたし、このまま家の中に入るものと思っていたがアルハイゼンは「教令院に戻る」と短く告げた。仕事が残っているというのにわざわざ送ってくれたという事実が発覚して、心底驚いている隙に、その場でおもむろにしゃがみ込むものだから、さらに私を驚かせる。
「前もって伝えておくが、断じて、カーヴェに、きみの包帯の世話をさせるな。これは、俺の役割だ」
あっけにとられている私に返事を求めようともせず、包帯で覆われた膝に軽く触れただけですぐに立ち上がったアルハイゼンの表情からは、何も読み取れない。そもそも初めから返答を期待していなかったかのように、さっぱりと踵を返して教令院に戻っていく背中を見送った。
心臓が膨らんで苦しくなり、家の中に逃げ込んで、アルハイゼンに言われた言葉をつっかえながらカーヴェに報告すれば、「少しは夫婦に近づいたんじゃないか?」と可笑しそうに評価された。