30.
凛月がかけてくれた呪いの効果かはわからないが、あれからずいぶんと月日が流れたけれど、私の命はまだ続いている。なにか特別なこと、たとえば、家にこもって出ないようにしていたとか、そんなことはしなかった。ただ、しばらくのあいだ一人で帰らせてもらえなくなったりして、凛月のおかげで細々と命を繋いでいっていたらあの二年後を飛び越えてしまっていたのだ。いまだに二年後の凛月と過ごした日々の記憶はちっとも薄れていない。いつもと変わらない日々に復帰するのは早く、高校生の制服を着ている凛月と一緒にいると、ピアノの先生になる勉強とアイドルの仕事を両立させて、身の回りの家事をひとりでこなしている凛月が幻のように思えてしまう。だけど、凛月には未来の凛月がなにをしているか伝えなかったというのに、凛月はピアノの勉強をする道を選んだし、いつのまにか家事を一通りマスターして、アイドルのお仕事もこなしている。学院を卒業してから会える時間が減ってしまうのはしょうがないとはいえ、このごろは寂しくもなったりする。そのたびに、高校生の私が未来を生きる凛月の帰りを待っていた短い夏の日々を思い出す。
そして、命日になるはずだった誕生日を通り過ぎ、凛月と出会った二年後さえ通り過ぎ、高校二年生より三年後の誕生日を迎える。
「」
すべらかなシーツに頰をぴったりとくっつけながら、遠くから聞こえる音に耳を澄ませる。昨夜、一緒に選んだお味噌汁の具はなんだっただろう。まどろむ意識に流れ込んでくるのは、朝食のやさしい匂い。ぱたぱたと足を動かす音。間延びした陽光のような声が、私を呼ぶ。
「、ねえ、起きてよ」
「なん、で……」
「なんでって、今日はの誕生日じゃん。プレゼントなにが欲しいって聞いたら、朝ごはん作ってって言ったでしょ。俺がのために貴重な睡眠時間をさいて朝ごはんを作ったのに、まだ寝ぼけてるつもりなの?」
やたらと饒舌な凛月の声からは眠気が消え去っていた。うっすらと目を開くとエプロンを着けた上機嫌な凛月がまさにベッドに侵入しようとしているところで、だめ、と言う前に飛び込んできてしまう。
あんまり早く眠らなかったとき特有の気だるさが節々に残っている。こんな日は時計の針が十二時を過ぎるまでベッドの上でごろごろしていたいのに、睡眠を大切にしている凛月が早くから行動をしている。早起きの理由が私のために朝ごはんを作るためだと言われたら惰眠を貪っているわけにもいかない。
重たい体を起こしてあくびをこぼす。服の裾が余っているのは、パジャマを持ってこないお泊まりをして、凛月の部屋着を借りたからだった。
「朝ごはん、食べる」
起こしにきたくせに、言葉とは真逆にベッドに沈んでいる凛月の丸い頭を撫でる。さらさらの髪が指のあいだを逃げるように落ちていく。
「」
「んー……?」
「。誕生日、おめでとう」
ベッドに倒れたまま顔だけをこちらに向けている。細められた目の奥の赤色が、かすかに湿っている。
凛月からのおめでとうの言葉が欲しくて、たくさん意地を張った三年前が懐かしい。頭が痛くなるくらい泣いたのも、あれ以来まだない。
「ありがとう」
素直なお礼に、凛月は目を細めて笑う。
「今年も交通安全には気をつけてね」
「それは……わからないけど」
気をつけていたってどうしようもない瞬間があるのを、どうしようもなく、全身で知っている。それに遭遇しないように気を配ったとしても限界はある。約束はできそうもなかった。
「じゃあ、俺からにお守りをあげる」
湿り気を帯びた赤い目を閉じて、開く。そのままポケットに手を突っ込んでなにかを探る仕草をしてみせるので、顔を近づけて凛月の動きを観察すると、握られただけの手が出てきて首を傾げる。どこか有名な神社のお守りでも買ってきたのだろうかと考えあぐね、くれるのなら、と手のひらを差し出したら、握りこぶしを作っていないほうの手が手首を掴み、素早くひっくり返された。
「高校生のときみたいに、ずっと一緒にいられないしね」
薬指にはめられた指輪は凛月の体温が混じってあたたかく、すぐに肌に馴染む。皮膚よりも考える力の弱い頭はこの場に合った言葉を組み立てられないから、寝転がったままの凛月に視線を送り続けることしかできない。
「ほんとうは呪いがよかったんだけど、どっかの俺がもうあげちゃったらしいから、これはお守りだよ。呪いとお守りのどっちもがあるんだからは最強だよ」
ううん、と考えるそぶりをしてみたって、薬指にはめられたものから逸らせない目が、どんどん痛くなる。
「は泣き虫だねえ」
引っ張られて寝転ばせられて、シーツに吸い込まれていくはずだったもののうち、いくつかは凛月の指先に奪われていく。
「……うん。はやく朝ごはん食べたいから泣き止ませて……」
「いいよ。じゃあ、も横になって。それからもう一回、手、出して」
寝転がったが、また手を出してなにか差し出されでもしたら驚きのあまり心臓が止まってしまいそうで恐ろしかったので躊躇っていると、肩を揺らして笑う凛月に「今日のはちょっと鋭いね」とからかわれて恥ずかしくなる。
「な、なに、なにか、あるの? 私は凛月になにもあげられてないのに」
「なにかをあげるんじゃないから安心して。ちょっと見てほしいだけだから」
「なにを……?」
「えーっと、なんて言えばいいのかな」
指輪を隠していたポケットとおなじ場所から出てきたのは高校二年生の夏まで私がつけていたリボンタイだった。
お別れをする間際に、凛月の手首に結んであげたものが、凛月の手のなかにある。驚きに目を見開いて口を閉ざすと、歌い聞かせるように控えた声で、凛月がこっそりと耳打ちをする。
「……三年前にと保健室で寝たときに、と同じ夢を見てから、たまに、その続きを見てた。夢のなかの俺はの命日にの幽霊と出会って、幽霊ののお世話をするの」
私が見た交通事故の夢はあのときの一度だけだったし、あの夏の日々の夢を見ることも、一度もなかった。凛月にもらった呪いのネクタイはなくしたら嫌だったから一番大切なものを入れる引き出しにしまってたまに眺めるくらいで普段から着けたりはしなかったし、リボンタイも買い直さずに学年指定の色が変わるまでそのままだった。凛月がなんらかの手段を用いなければ、ここにあるはずがないものだ。
「俺だけど、俺のことじゃないから、夢みたいに思えてしまうんだけど。でもこれを見つけちゃったから、少しずつ思い出しているっていうのが正しいのかなあ」
「……夢、じゃない。幽霊でも、ないよ」
「うん。わかってる。はだもんね」
夢にしてしまうにはあの夏はすべてが濃密で、痛い思いもたくさんした。日焼けをした肌は元に戻ってしまったけど、今年の夏に凛月と一緒に花壇をつくったら、また同じように日焼けをするだろう。
「そうだ。今度、俺にもあれ作ってよ」
「あれってなに?」
「味が薄めの、美味しいゼリー」
生まれてはじめてだれかに手作りの食べ物を作った傑作は、実際は味の薄い素人のゼリーだったらしい。それをこの場で今更伝えられるのはデリカシーに欠けている。腹が立って頭をぐしゃぐしゃに撫で回してやると、朝から上機嫌の凛月は、けらけら笑って「だいすきだよ」と言いながら抱きついてくる。
「明日の朝ごはんはが俺のために作って。お返しは、それでいいよ」
そんなのでいいの、とつぶやく声にはどうしても熱がこもってしまう。照れ隠しに、薬指に着けてもらった硬いお守りを何度も撫でるが、一度せり上がった熱はそう簡単に冷めそうにない。
ここから先の知らない未来の続きを、凛月だけに教えてもらいたいと思う。
(了)