29.
事故に遭って横たわっている自分の姿を、どこか上の方から見下ろしていた。いつもの通学路、歩き慣れた横断歩道の手前。いくら気持ちが昂ぶっているとはいえ、青信号に切り替わり足を踏み出した瞬間に轢かれるとは思わない。こんなのはいくら気をつけていたって防ぎようがない。凛月に見せてもらった新聞記事と同じくらいのあっけない人生の終わりだった。
凛月に好きと伝えられたら未練はなくなるなんて嘘だ。ほんとうは、おばあちゃんになっても一緒にいたかった。大きな願い事は気を抜いたら口をついて出てきそうで、言葉にしたらもっとひどく取り乱してしまいそうで、手にぎゅっと力を入れて言わないようにしていた。
来世とか、生まれ変わるとか、未来に期待するんじゃなくて、いまの姿のまま、凛月と一緒にいたい。
そうして、今世への未練をいっぱいに抱え、絶対に死んでなるものかと闘志を燃やしていると、火照った頭を冷却するかのように、顔中に雨粒のようなものが降ってくる。この感覚はなにも初めてじゃなかったけど、いつ感じたものだったかすっかりと忘れてしまっていた私はびっくりして目を開く。すると、暗闇の真ん中で凛月が涙をぼろぼろと零しており、目が合った瞬間にぎゅうっと抱きついてくる。
「り……凛月、苦しい」
全身を苛む倦怠感は眠る前よりもましになっているとはいえ、手足を満足に動かすにはもう少し時間がかかりそう。もちろん抱きついてくる凛月を引き剥がす力はないので、なにも言わずに抱きついてくる凛月の背中を撫でる。
「えっと……? 私まだ生きてる、んだね……?」
気絶と区別のつかない意識の失い方に、交通事故に遭うよりも先に命が終わってしまったのだと思っていた。闇に慣れた目であたりを見渡すと、そこは清潔に整えられている学院の保健室で、窓の外は夜の真っ只中で、私も凛月も制服のままだった。うっすらと消毒液のにおいがするも、それよりも凛月のにおいの方が強い。
ぎゅうぎゅうに抱きついていた凛月がふと離れる。ベッドがぎしりと軋んで、馬乗りでこちらを見下ろす凛月の綺麗な顔が涙でしっとりと濡れている姿をぼんやりと眺めていると、大胆に顔を寄せられ、唇が重ねられる。別れ際にしたような、ただ唇をくっつけるだけのやり方とは違う。寝起きの呼吸を奪われるようなキスをどうにか受け入れようとするも息ができなくて苦しくて、顔を逸らして咳き込んだ。
「……ごめん、」
「ううん……」
苦しさから目が滲んだ。凛月の冷えた唇が目元に寄せられる。
「変な夢、見た。が事故で死んじゃう夢」
「え……?」
馬乗りになったままの凛月は唇がくっつきそうなくらい近づいて、ささやくように呟く。湿っぽい声が夜の保健室に響かずぼとぼと落ちた。
キスはしなかったが、距離を広げる気のない凛月の顔を両手で包み、じっと視線を合わせる。薄く入り込んでくる夜の光が赤い目に反射してきらきら光った。
「それ、私も見た」
それにしても私はまだ死んでいないし、未来で濃密な時間を過ごした影響で眠気が強く、学院で深く眠ってしまったようだ。
「私の命日、誕生日なんだって」
「……だからあんなに好きだって言ってくれたんだねえ」
「うん。もし凛月に好きだって伝えずに死んじゃったらずっと後悔するって思ったの」
「好きだって言ったら、気は晴れた?」
気が晴れる予定が、凛月がケーキを作ったなんて言うものだから、それじゃあそれを食べてからにしなければ、と先延ばしになっていく。まだ若くて健康で、凛月のことが大好きだから、どんな言葉を重ねても未練は消えてくれない。
「あんまり、晴れてない……」
「それ聞いて安心した」
ぼすんとベッドが揺れて、凛月が身体の上に乗っかってくる。
「後悔するの、だけじゃないよ。俺も、もっとに優しくしたいから、まだまだ生きてもらわないと困る」
「……凛月は、優しいよ」
「そうじゃなくって……。はほんとに俺のことなんにもわかってないよ」
ベッドマットはそれほど柔らかくはなかったから、凛月の重みに耐えられそうになく、そっと脇に避難する。ただ、同じ悪夢を見たせいでなんだか離れがたい。額と額はくっつき、足は絡まっている。シーツは足元でくしゃくしゃに丸まっている。
「凛月がここまで運んでくれたの?」
「そうだよ。がいきなり眠って、呼んでも起きないから保健室に運んだんだよ。の寝顔見てたら眠くなっちゃって寝たんだけど、そしたらあんな悪夢見るし、最悪……」
思い切り苦い顔をする凛月というのも珍しい。凛月の湿っぽい頰に唇を何度もくっつけて、背中を撫でる。
「それにそのネクタイ。いくら俺とはいえ、身に覚えのないものを身につけられているのはおもしろくない」
「でも凛月にしかもらってないし」
「あたりまえでしょ。他の男だったらとっくに燃やしてるよ」
物騒なことを言いながら、頰へのキスのお返しと言わんばかりに唇にキスをされる。もうどうやったって機嫌は直らなそうだ。
「凛月、怒らないで」
「は、俺に心配かけるのが好きみたいだから、怒らないのは無理だろうねえ……」
全身から力が抜けたようなゆったりとした話し方で、諦めがついたように言う。
二年後の凛月があんなになんでもできたように、いま不貞腐れている目の前の凛月もきっと面倒見がいい。かといって凛月に面倒を見てほしいだとか、そんなふうには思わない。凛月が私の扱いを決めかねて、着替えや食事の世話をしてくれた日々も愛おしいけれど、どうせこの先ずっと一緒にいるのなら、どちらか一方だけが頑張らなければならないということにはならないはずだ。
「無事、おうちに帰れたら、凛月のケーキが食べたい」
随分長いあいだなにも食べていないから胃がきりきりと痛む。生きているだけでお腹は空くし、真夜中であれ甘いものが欲しくなる。
「俺が一緒に帰るんだから無事に決まってるでしょ。それに、日付ならとっくに変わったんだよ」
不満いっぱいに胸元のネクタイをいじっていた凛月は、それがほどけることのないようにきゅっと締めて、両手を差し出してくる。その手に誘われるようにして手を預けると、ぎゅっと握られたあとですっと引き起こされる。
凛月がくれたネクタイの呪い。それは数年ほど、しっかりと私の命を守ってくれたのだった。