28.
さんざめくのは蝉の鳴き声だ。青々とした木々と、鮮やかに澄み渡る空に夏がなだれ込んでいるらしい。
強烈な光に目の前がちかちかと明滅するので、両手で濡れた目を抑える。凛月とずっと一緒にいたかったから、人生で一番と言っていいくらいに泣いてしまった。頭が痛い。
「……、? ねえ、なんで泣いてるの」
目にあてていた手を下ろすと、じわりと溶ける視界に夢ノ咲学院の制服を身につけた凛月がいて、もとの時間軸に戻ってきたのだとわかった途端、ほっとしたのか寂しいのか、胸がぎゅっと苦しくなって涙が追加で一筋だけ流れた。見慣れた学院の風景がひどく懐かしい。
「り、凛月、が……」
「……俺のせいで泣いてるの」
「そう、なんだけど、そうじゃなくて」
二年の時間を越える前は、凛月に誕生日を祝ってもらえないのが悲しくて凛月から逃げようとしたら、手首を掴まれて引き止められたのだった。高校生の凛月からすれば、突然走り出したかと思えば泣き出しただけの、わけのわからない人間にしか見えないだろう。
凛月のために泣いてしまっているのだけど、凛月のせいではない。凛月がくれるだけの気持ちを伝えられなかったから、私は凛月から逃げて、走って帰る途中で、死んでしまった。
足腰からすとんと力が抜けてしまい、地面に尻餅をつく。ふたりぶんの身体は、体育館裏の影に隠されている。
「……」
私よりも泣いているような顔をした凛月は、手で涙を受け止めてくれていたけれどそれだけでは間に合わない。
「あれ……。、そのネクタイどうしたの?」
「りつが、くれたの」
「俺?」
疑問に思うのも無理はない。凛月にもらったのは事実だけど、いまの凛月ではなく、二年後の凛月にもらったのだから、いくら記憶力がいいとはいえ凛月はこのことを知らない。
「……あと、日焼けした?」
「えっ、嘘。凛月に帽子借りてたのに」
「どういうこと? 、ほんとうにどうしたの。ちゃんと説明してもらわなきゃわかんない……けど、その前に深呼吸」
息継ぎもままらないくらいにたくさんの出来事があったから、喉がひっくり返りそうなくらいに引き攣っている。長く深く息を吸う凛月の真似をして酸素を取り込み、吐きかたも凛月の真似をした。時間をかけて何度も息をしていくうちに、涙の塩気が遠ざかり、青い夏のかおりがうんと近くなる。同時に、凛月と過ごした日陰の多い夏が遠ざかる。それがひどく寂しくて胸がじくりと痛む。
「落ち着いた?」
凛月のポケットから出てきたタオルハンカチは洗剤のいい匂いがした。朝、真緒くんが凛月に持たせたのかもしれないが、凛月だって、自分の持ち物は自分で用意できる。少なくとも、遠くない未来に、必ずそうなる。
「が泣いているところを見るの、久しぶりだなあ」
涙を止めるのにかなり時間がかかってしまい、体力の底が見えかけたときに凛月は私の頭を撫でながらぽつりと零した。
「……ごめんね。気をつけていたんだけど」
凛月の周りでうるさくするとそばに居させてもらえなくなると思い込んでいた私は、泣きたいのをぐっと堪える回数が増えて、泣く回数はだんだんと減っていった。二年後の凛月の前では何度も何度も泣いてしまったから、あまり珍しい出来事でもないのだが、凛月にとっては「久しぶり」なのだ。むかしは、よく泣いていた。怖いものと寂しいことがたくさんあったからだ。
「いいよ、気をつけなくて。もっと泣き顔見せて」
「……や、やだ。私、凛月の前では、ちゃんとしたい」
「さっき言ったじゃん。俺はを甘やかしてあげたいんだってば。だから、泣きたいときに、無理にちゃんとしなくたっていいんだよ」
タオルハンカチを口元にあてて深く呼吸をした。意識的に息継ぎをしなければ、凛月のとろけるように優しい言葉が染み渡って、また泣いてしまいそうだった。
いつも居場所をくれる凛月が、甘やかしてくれる理由なんて、ひとつしか思い浮かばない。
「凛月は、私のことが、好き……?」
「大好きだよ」
なんでそんなこと聞くの? と首を傾げる凛月は訝しげに私を見つめながらも頭を撫でる手は止めない。
好きだと言ってくれたぶんを返したかった。恋人と呼んでもらえるほど、凛月になにかをしてあげられてはいない。だけど私は、凛月の恋人になりたい。ずっと前から、そうなりたかった。
「私も、凛月のことが好き、大好き」
ぴたりと止まった手の動きを合図に立ち上がって、凛月を見下ろした。地面に座り込んだままの凛月はひどく困惑しており、まばたきの回数の多さによって動揺を隠しきれていない。
「もう言えなくなると思ったから、それだけどうしても言いたかったの。じゃあね、ばいばい」
まくし立てたら立ち去るつもりが、こちらに向かって伸ばされた傷ひとつない手に繋ぎとめられて、強い既視感をおぼえた。
あの時と同じく「」と呼ばれたが、強い光は視えない。そのかわりに、顔を真っ赤にした凛月に両手を引っ張られ、黒い影に塗りつぶされた硬い地面の上にすとんと戻される。
「……ひとりで終わらせないでよ。俺の話も聞いて」
足も手も上手に動いてくれない。何日も走り続けてたかのごとく、疲労が全身を苛んで、満足に駆けられそうにない。
「凛月、顔真っ赤だよ」
「だって嬉しかったんだもん。ねえ、好きって、初めて言ってくれたよね」
赤面をした凛月を見たのはこれが二度目だ。一度目は、別れ際に好きと言われたからたまらなくなって、強引にキスをしたとき。頰がぐんぐん赤くなるにつれて、赤色の目も落っこちてしまわないか心配になるくらい大きく見開かれる。
「いっぱい言ってよ、。もっと俺のことを喜ばせて」
好きだと伝えたら泣きたくなってしまうんじゃないかと思っていたのに、凛月があまりにも顔を真っ赤にしているものだから、それよりも心臓がどくどくとうるさくて、夏のせいだけではなく、血のめぐりによって全身が火照っていく。
手首をぎゅうぎゅうと確かめるように握ってくる手が生ぬるい。込められた力は強くはないからいざとなれば振り払えるけれど、わずかしか体力が残っていないせいでどうにもならなそうだ。
膝枕やキスをねだられたりはしても、好きと言ってと要求されたことはない。言葉が行為よりも気恥ずかしいのは、今まで伝えてこなかったせい。
「……ケーキ、作ったんだよ。のケーキだよ。食べにおいでって、言ってもいい?」
「私の、ケーキ?」
「そう。のお誕生日ケーキ」
「凛月、私の誕生日をおぼえていたの?」
「俺がの誕生日を忘れるわけないじゃん……。何年祝ってると思ってるの? まだそこまでおいぼれてはないつもりなんだけど」
小さい子どもを諌めるように、腰をぐっと曲げて下の方から顔を合わせてくる。
「お祝いするから食べにおいでって言いたかったのに、走って帰ろうとするしさあ。それで引き止めたら、、めちゃくちゃ泣いてるし。心臓とまるかと思った」
懲りずに凛月から逃げようとした拍子に落としてしまったハンカチを手のひらに乗せられ、ぎゅっと握りしめられる。丸まってしまった布が皮膚をざらざらと撫でて、そこに吸い込まれた涙の一部が湿っぽい。
「で、はなんで泣いてたの? どっか痛いとか?」
「ううん、どこも痛くないの」
凛月の家だけで過ごしたまるで夢みたいな短い夏の出来事を凛月に伝えられたら、忘れちゃうのかな、と不安そうにしていたあのときの凛月の心配事はなくなる。もう心配しなくてもいいのだと伝えられる手段はないのが悔しいのだが、そういう後悔はこの先たくさん出てくる。
どこから話そうか。どんな荒唐無稽も、凛月なら真剣に耳を傾けて、信じてくれそうだ。凛月の作ったごはんを食べたことや、花壇に花を植えたことを丁寧に話したい。ああ、でも、凛月が語った将来の夢は教えないほうがいいのかな。未来のことは、知らないほうがいいに決まっている。
「、眠たいの?」
凛月にもらった凛月のネクタイを、タオルハンカチごと両手でぎゅっと握りしめる。話したいことがあるのに、地面にくっついて離れない重苦しい身体はもとより自由が効かないが、頭もぼんやりと濁って話がまとまりそうにない。
頭の重みに従って、上半身が凛月の肩に寄りかかる。背中に回った凛月の手がこわばっているような、気がした。
「……なんだか、凛月に好きだって言えたら、ほっとして、ちょっと疲れちゃった……」
「……?」
ずっと凛月と話していたいのに、まぶたは独りでに下りていく。泣きすぎて重たくなった瞼が熱い。
意識が崩れる直前、蝉の鳴き声が完全に途切れて切り離された世界で、凛月がよく弾いてくれたピアノの曲がうっすらと聴こえて、ぱちんと消えた。