27.
光が眩しかったから目がさめた。凛月の寝室にしては珍しくカーテンがうっすら開いていたのだ。淡い光に照らされた凛月のまぶたはぴっちりと閉じており、黒い睫毛が規則正しく生えそろっているのがよく見えた。それくらい、近い距離で凛月の顔をまじまじと観察する。肌の具合はそう変わらないが、高校生のときよりも血色がよくなっている気がする。
暮らし慣れたリビングは漫画本やタオルケット、ふかふかの枕など、私がかき集めた生活に必要なものたちで散らかっていたので、すべてを一纏めにしてソファの隅に置いた。片付けを終えてからはリビングを抜けて脱衣所に行き、ここにやってきた以来着ていなかった制服を手に取る。下着が窮屈だ。きっと、ここでの暮らしと、凛月が着せてくれた服に心よりも身体が慣れてしまった。
いつか訪れるお別れのときまでに、凛月になにか言葉を残そうと考えなかったわけじゃない。ありがとうもごめんなさいもきちんと伝えられていないし、伝える時間が足りないかもしれないから、前もって準備をしていなければならなかったのに、結局、お別れの瞬間が先にやってきてしまったようだ。
「勝手にいなくならないでよ」
玄関の扉かけた手がぴくりと跳ねて、止まる。
見たこともない怖い顔をした凛月は、寝間着のまま寝癖も直さずに私の手を握っていた。
「だって、なんにも思い浮かばなかったの」
「なにが?」
「お別れの言葉」
ここで一緒に暮らした短い夏の日々を、さようならの一言で済ませるのはそっけない。かといって、適切な言葉はなにも思い浮かばない。
最後に、一緒に眠ってくれたから、幸せな思い出で終われる。
「だからってなにも言わずにいなくなられるとびっくりするからやめてよ。はなにも思い浮かばなくても、俺はきちんとお別れしたいから」
俯かせていた顔を上げると、凛月は「腹を括った」と言った昨日よりも落ち着いた表情でこちらを見ており、黙ったままの私が突然走り出したりといった行動に出ないと察すると、そっと手を離してくれた。
この家に来てから私が成し遂げた中身のあることといえば、枯れていた花壇の土をふかふかにして、それから彩のある花を植えたことだった。
手を離してくれたのはいいが、有無を言わせない口調で「花を見に行こう」と誘った。凛月のために植えた花は水やりを欠かさないおかげでみずみずしく、夏の太陽に照らされて鮮やかに咲いている。水を土に吸い込ませると、香りがいっそう強くたった。
「お花、植えてくれてありがとう」
「ううん。水やり、ちゃんとしてね」
「ぜったいに忘れないよ。俺、忘れるのは苦手だから」
いつか、私が花壇に花がなくてさみしいと言ったことも覚えていてくれたんだっけ。ふたりで共有している思い出のすべてを凛月は覚えてくれているのだろうけど、彼よりも頭の出来がよくない私は、凛月が言った通りに、いくつか忘れてしまっているのだろう。
「そうだ。これあげる」
どんなふうにお別れをされるのか、それが終わるまで私の涙腺は気を強く持っていられるかと思案しているところに、青いものがすっと差し出された。
「……ネクタイ?」
「そう。俺が二年生のときのネクタイ」
紺色に近い暗い青のネクタイを、凛月が着けている姿を見かけたことはない。それほどに薄い存在であるものを卒業した今でも持ち続けているとは驚きだ。
「一回も着けたことがないから新品同様だよ」
「だろうね……」
断りもなく白いブラウスの胸元に下がっているリボンタイをほどいたかと思えば、えらく器用にネクタイを結ぶものだから、さらに驚かされた。私のお世話をする宣言に嘘はなく、料理ができるし、ネクタイなんてすぐに結べてしまうらしい。
「これはお守りだよ。が事故に遭わずに、末長く生きられるように、ちゃあんと呪いをかけておいたからね」
リボンのかわりに結ばれたネクタイを満足そうに撫でながら語りかけられる。ゆっくりと穏やかな口調のなかに不穏な単語が混ざっているのを聞き逃さなかった。
「の、呪い……? お守りなのに? お祈りとかじゃなくて?」
「呪いのほうが強そうでしょ」
「そういうもんかな」
「そういうもんなの」
ふふんと得意げに笑われ、凛月がかけた呪いであれば効きそうだが、禍々しい印象は拭えない。うまく解せずに、着けられたてのぱりっとしたネクタイを見下ろす。お手本みたいに綺麗に結ばれたネクタイには寸分の隙もないので、時間を越える途中でほどけたりはしなさそうだ。
私の胸元にあるべきリボンが凛月の手のなかでひらひらと揺れている。それを抜き取って凛月の白い手首に結びつけると、私に呪い付きのネクタイを巻きつけたときよりもやたらと嬉しそうに微笑む。
「凛月、いままで一緒にいてくれてありがとう」
リボンの着いた手首をぎゅっと握ってから離す。うまく笑えなかった。
改まった言い方に、凛月はじっと鋭く私を見つめて、その場にしゃがみこむ。それに倣うと花の甘い香りがぐんと近づいた。
「……べつに。それに、は、俺がのことを助けてあげたから、ずっと俺と一緒にいてくれたんだよね」
花壇の前でしゃがみこんでいる凛月は膝をぎゅっと抱えたまま顔だけをこちらに向けている。
「……なんでそう思うの?」
「なんでかなあ。今までひどいことを言ったり、してきた自覚があるからかな」
「それは……」
小学生のときの凛月はけっこう冷たくて、よく邪魔者扱いをされていた。今思えば、たいして親交のない人間が泣きべそをかきながら部屋に居座られたら迷惑でしかないと思う。だけど凛月は私を追い出そうとはせずに、たまに鬱陶しいと文句を投げることはあっても、約束通りずっとそばに居させてくれた。他に行き場のない私は凛月の甘さに逃げ込んで、頼りっぱなしだったのだ。
関係が移ろいだのがいつごろだったのか、はっきりとは思い出せない。凛月がキスをしてくるようになったのはお互いが中学に入学してからだけど、初めてがいつだったのか、きちんとは思い出せない。たくさん与えてくれた愛情の始まりを、凛月は覚えているのだろうか。
「……凛月が、いままでずっと……いっぱい好きだって言ってくれたから、いいよ」
記憶力のいい凛月は私にかけた言葉も、行為も、すべてを覚えているのだ。
冷たくされても凛月のところに行くのをやめなかったのは、部屋に入れてくれることを許してくれたから。凛月の優しいところを知っているから、凛月が念を押さなくても、凛月のことはちっとも怖くなかった。
「ふうん……。じゃあ俺の愛は伝わってたんだ」
「伝わってたよ。ずっと、ずっと……。だからね、私は凛月がずっと健康で、元気で、幸せでいてほしいなって思う。おじいちゃんになったら子どもにピアノを教えてほしいし、それまではたくさん歌ったり踊ったりしてほしい。あ、あと、素敵なお嫁さんを見つけて幸せな結婚生活を送ったりとか」
「」
「凛月は優しいから、いいお父さんになるよ」
「うん、わかったから。、泣かないでよ。はほんとうにすぐ泣くよね」
太陽の光を吸い込んだ手はあたたかくて、涙が拭われたところから溶けていってしまうみたいだ。私はべつに泣き虫なんかじゃなくて、ただ、凛月の前で泣くことが多いだけだ。
「うん、ごめん……。はやく泣き止ませて……」
「いいけど、そしたらのこと帰してあげられなくなるよ」
「自分でなんとかします」
「そうしてください」
くすくすと笑う凛月の声に涙は止まらず、拭ってもきりがないほど零れている。じわりと汗がにじむ。二年前よりも血色がいいとはいえ、もともとの体質が劇的に変わるはずもない。長時間太陽光のもとにいる凛月が心配だった。
涙が止まるよりも先に日が暮れてしまいそうだったので、早々に諦めて立ち上がった。下手だったけど伝えたいことは伝えたし、お守りのネクタイを結んでもらえた。なにより、ひとりで植えた花をふたりで見られたから、格好悪い終わり方でも、それでいいと思っていたのに。
「俺、のことが大好きだよ。だから、どうか、俺よりも幸せになってね」
黙ったまま門を出ようとしたときにそう言われて、止めたかった涙はもっともっと溢れて、こんなにあったのかって思わずにはいられないくらい、たくさん出てくるものだから持て余してしまう。
車には気をつけてね、と付け足した凛月に背を向けたまま何度も頷く。私には「好き」だって言わせてくれなかったくせに、最後に一番欲しかった言葉をくれるのは嬉しいけど、それ以上にずるいと思う。
振り返らずに帰ろうかと決めていたけれど、やめた。止まらない涙の切れ目に、景気良く足首を回した。ずっとそうして優しい眼差しを向けてくれていたのだろう、凛月のふわふわとした笑顔が視界を掠める。
だらしなく胸元が空いたパジャマの襟をぐっと強く引っ張った。埋まらない身長差を爪先立ちでやりくりして、唇をぶつけるようにくっつける。赤い目がまん丸になって、驚きに見開かれた。凛月がくれたネクタイが軽やかに翻る。熱がのぼってきたせいでだんだんと赤くなっていく頰を眺めながら、後ろ歩きをするようにして足を動かし、一歩ずつ門の外に向かう。視界の隅っこから白い霧に包まれるようにして、光景が遠ざかっていく。
真ん中にいる凛月はついに顔を真っ赤にしていたし、たいそう焦ってなにかを言おうとして、だけど言葉にならずに口を閉じた。
「凛月、ばいばい」
両足を門の外に出すと、学院の体育館裏で体験したものと同じく、短い光が目の前で弾けた。意識が途切れる瞬間まで凛月の顔を見ていたかったのに、まぶたは否応なしに閉じる。
そうして、二年後の少し大人になった凛月とお別れをした。秋に差し掛かりそうな眩しいばかりの残暑の日々だった。