25.


 部屋には大きくて黒いグランドピアノと、壁一面を隠すように立っている本棚くらいしか物がない。この部屋に入れてもらえるようになるまでそう時間はかからなかったし、幼いころはしょっちゅうピアノを聞かせてくれていたのに、高校生になってからは機会がめっきり減ってしまったので、すこし寂しく思っていた。
 懐かしい匂いがする。古い本の匂いに混じっているのは凛月の匂いだろう。数年前は、私もここにいた。そのときと寸分違わず清潔な部屋の入り口で佇んでいると、凛月に手を引っ張られてピアノの椅子に座らされる。高い位置に嵌め込まれた窓から注ぐ夕方の光が凛月の頰を明るく照らしている。

、ピアノを弾いてよ」
「……え、ええ……、なんで?」

 ピアノが得意な凛月にそんなお願いをされたのは初めてのことだ。これまでの人生においてピアノを習った経験はなく、楽譜の読み方もかなり怪しい。

「ピアノなんて弾けないよ」
「きらきら星なら弾けるんじゃない?」

 それは凛月がたくさん聴かせてくれた曲で、この家に来てからひとりで過ごしているときにもよく流していた。誰でも知っている曲だし、音楽の授業で音を習ったこともある。だけど凛月が弾いていたきらきら星はもっと音の数が多くて、アレンジも様々だった。

「俺が教えてあげるから」

 躊躇っていると凛月の手に導かれた人差し指が鍵盤に触れる。ひとつの綺麗な音の残響が次の音に重なる。凛月は私の指を操ってきらきら星の旋律をなぞっている。あまり自分で弾いてる気にはなれず、これだったら凛月が弾いてくれるのを聴きたくて顔を上げると、隣に立つ凛月がやたらとやさしい顔で鍵盤を見ていたので慌てて顔を逸らした。なんだかんだで面倒見がいいくせに、高校受験のときはいくら頼んでも勉強を教えてくれなかった気がする。だから、凛月はひとになにかを教えるのが好きではないと思っていたのに、こんなにやさしい顔で鍵盤の上で指を動かしてくれるのは意外だ。

「……俺、大学でピアノの先生になる勉強をしてるんだよねえ」

 ドの音で結んでから凛月は私の手の甲を撫でられながらそう言われ、驚きのあまり声が出なかった。

「そんなに驚いちゃう?」

 何度も頷いて肯定をした。凛月が学校に行っているのは真緒くんから聞いて知っていたし、むかしからピアノが上手だったから音楽系の学校に進学したのは頷ける。だとしても、先生になるための勉強をしていると聞かされるとは。

「アイドルの仕事も楽しいし、ちゃんとやってるよ。これからもずっとやりたいって思う。でもねえ、ピアノもむかしからずっと好きだったし、落ち込んでいるにピアノを聴かせてあげるのもほんとうに好きだったんだよ。あとはまあ……それだけじゃなくて、人になにかを教えるとか、そういうのもけっこう楽しいし……。いろいろ考えて、先生の免許をとることにしたの」

 なにか言いたいのに、言葉が出てこない。ピアノを聴かせてもらえるのは嬉しかったけど、泣きそうな私を慰めるために仕方なく弾いてくれているのだと思っていた。めんどくさいなあ、と言われたことだって何度もある。そのたびにちょっとずつ傷つきながらも、言葉よりもやさしい音色でピアノを弾いてくれるので、懲りずに甘えてしまっていた。あのときの「めんどくさい」は本音だろうが、進路を決める折に「好きだった」思い出にしてくれるは純粋にうれしくて、頰が熱くなる。
 部屋のなかでふたりでいる時間や一緒に登下校をする回数が目に見えて減って、だんだんと寂しくなってきたことを思い出す。人になにかを教えるのがけっこう楽しくなってきたのもその頃なのだろうか。変わっていく途中の凛月を見られなかったことは、未練になるのだろう。

「いつになるかわかんないけど、おじいちゃんになったときでもいいから、いつか、おうちでピアノ教室をやるよ」
「それ、ちょっと見たいかも。おじいちゃんの凛月が子どもにピアノを教えているところ、見てみたい」
が生まれ変わって俺に会いに来られたら見られるから、がんばって転生してね」

 いまのきらきら星の教えかたはなんとも微妙だったが、これから大学で朝早くに授業を受けたり、テストを受けたりしながら学んでいくのだろう。
 時間を超えられたのだから生まれ変わりという制度があっても驚かないけど、そんな都合の良い現象はないような気がする。そうだったらいいなとだけ呟き、黒いピアノ椅子の隣に割り込むようにして座った凛月の腕に寄りかかってみる。いやがられるかと思ったがそうでもない。ほんとうに凛月は腹を括ったらしい。

「……でも、大学のほうはどうしても行けないときがあるから、ちゃんと四年で卒業できるか怪しいんだよねえ……。焦ってるわけじゃないから、いいんだけど」

 今度は凛月の指だけが鍵盤の上を滑る。きらきら星変奏曲。音楽室に写真を飾られるような人が作曲をしたのだと教えてもらったのに、だれだったのか忘れてしまった。凛月が弾いてくれた光景と強く結びついているだけの、大切な曲。これは、私のためだけに弾いてほしい。

「ずっと俺を応援しててね、

 ピアノから離れた凛月の指たちが頰に触れる。そのままなにかをしてくれるかと思ったのに、しばらく見つめあってから息を吐いただけで、凛月は動かない。
 そのうち手も離れていったものだから凛月の言葉にきちんと頷くことができなかった。凛月を喜ばせるのが下手くそな自分が嫌になる。