23.
誠実な仕草でいつも話を聞いてくれた真緒くんの姿を見送ったあとも門のそばから足を動かせない。
静かな夏だった。光の粒はさらさらと流れ落ちて、地面に葉っぱの影を浮き立たせる。頭を灼く太陽はまだ高い。こめかみに伝った汗を手の甲で拭った。
私はきっと真緒くんがくれたものに対してなにひとつ返せていないのだ。お返しをしないままこうして送り出してしまったことをずっと後悔するのだろう。
「どこ行くの」
掴まれた腕は思ったよりも熱を吸い込んでいたようだ。凛月の骨ばった手のひらがやたらと冷たく感じる。
「真緒くんをお見送りしたの。お別れ、したから」
凛月に背を向けたままそう言えば、腕に込められた力が増える。ぎゅっと握られて軋んだ骨が痛みを訴えているのに、どうしても振り払えない。
「ま〜くんとお別れしちゃってよかったの?」
「さみしいけど、そうしないとずっと甘えちゃいそうだから」
それに、ずっとこの家にいるわけにもいかないのだから。
私を逃すまいとするような無茶苦茶な力の入れかたがほどけて、せき止められていた腕の血流が戻ってくる。どっと押し寄せた暑気がむせ返るほどに重たい。
「……甘えちゃっていいんじゃない。ま〜くんはを甘やかすのが好きだよ」
凛月は声の色を落としながらそんなことを言う。このまま門の前で佇んでいたら、日光に弱い凛月は呆れて立ち去るだろうと思っていたけれど、凛月は思いの外辛抱強かった。いくら力を抜いているといえど、凛月の手はいまだに私の腕を掴んでいたのだ。
真緒くんと一緒にいる時間はとろけた飴玉のようにやさしくて、とても好きだった。でもだめなの。これだけは、絶対にだめ。凛月とのことで真緒くんはたくさんの支えを与えてくれたので、ここからは私がひとりで踏ん張らなくてはならない。そうしないと、この家から出られない。
「いいの、ちゃんと決めたんだから」
「なにを?」
ようやく振り返って凛月の顔を見上げる。どこか寂しさを湛えている顔が印象深い、眩いばかりの夏のなか。私はこの家に住む凛月と離れることを決めたのだ。
「まだ、秘密」
「……なにそれ。のくせに生意気なんだけど」
腕に添えられた手に自分の手を重ねると不思議なほど簡単にするりと落ちていく。すかさず握り込められた優しい力に目を瞑って、凛月の肩におでこをくっつけた。あまり汗をかかないはずの凛月の身体はかすかに湿っていた。何年も前から知っている凛月の匂いが鼻のすぐ先にあり、肌を寄せるとそれだけで心地いいと思った。そうして調子に乗ってくっついたままだったのに凛月は怒らないし、私を遠ざけようともしない。私は死んでしまったのだと教えてくれた夜以来、凛月が纏う雰囲気から棘のついたものが減っていっているような気がする。
「……あのさ」
ややあって凛月は呟くように口を切ったので、いくらなんでも接触が多かったと反省をして額を離す。
「俺からひとつだけ提案があります」
この夏のあいだ、再三注意されていたように、詰めすぎた距離について物申されるのだと全身を硬くさせていたら肩をそっと撫でられた。眠れない日々のさなか、慰めるようにそうしてくれたように、強く動いてうるさい心臓を宥めてくれる。
「お腹すいていたらでいいんだけど、なにか食べる? ちょうどお昼ごはんの時間だし」
「……凛月は食べるの?」
「あたりまえじゃん。俺、もうお腹がぺこぺこで干からびちゃいそう」
「じゃあ、食べたい」
「決まりだねえ」
機嫌良く笑った凛月はダイニングの椅子に私を座らせるまでずっと手を繋いでくれていた。
凛月が料理している姿を見るのは、この家に来てどれだけも経たないうちにそうめんを茹でてくれた以来だろう。
同じ屋根の下にいるのに、凛月の匂いがどんどんと遠ざかっていくのを感じていた。文字も熱もすべてが遠くて、このままいなくなっちゃうんじゃないかと思うと、とても怖かったのだ。
「じゃーん。今日は冷やし中華だよ」
透明な器に細かく切られたハムやきゅうりなどたくさんの具が乗っかった冷やし中華が盛り付けられている。酸味のあるつんとした匂いが不摂生を極めていたお腹を健康的に刺激する。お腹がすいていたんだなあとひとごとのように思い、手を合わせて「いただきます」と言う。
「どうぞ、召し上がれ」
お箸を手に持ってからも凛月は赤い目で私の動きを離さない。もしかしたら無意識にそれをしているのだろうか、どこか不安そうな視線を送り続けてくる。
真緒くんから教えてもらったことと、凛月の口から聞いたこと。凛月の作った美味しいごはんのほとんどを残して痩せてしまったのを凛月はものすごく気にしているようなので、いま向けられている凛月の感情は勘違いではないだろう。「残してもいいから」と私の逃げ道のために言葉を添えてくるのに胸がちくちくと痛んだ。つるんと喉を通る麺はよく冷えていて、酸っぱくて食べやすい。
「ちょっと、……、なんで泣くの。冷やし中華、酸っぱかった?」
珍いほどわかりやすく狼狽した凛月のあたふたとした声がだんだんと近づいてくる。頰が熱くなった。目からこぼれ落ちる熱を持ったものたちは意識で止められそうにない。
悲しいことなんてなにもない。凛月が優しい。身を寄せた私を突き放さなかった。美味しいごはんを作ってくれた。手を握ってくれて、そばで涙を拭ってくれて、こんなにも満ち足りた時間は幸福に違いないはずなのに。
「凛月の……凛月のごはんがおいしくて、涙が止まらないだけなの」
「ええ、なにそれ。俺のごはんはいつも美味しいよ」
頭を撫でられながら、ほんとうにそうだと、心の底からしみじみと思った。与えられすぎて当たり前になっていたものがなおざりな扱いを受けていたのだとようやく気がついた。
「よしよし、大丈夫だよ。落ち着いたらまた食べようね。それとも食べさせてあげようか」
「い、いい。自分で食べられる」
「そうなの? 昨日はあーんさせてくれたのに……つまんないなあ」
ふふ、と小さい笑い声をあげながら、凛月は私の身体を引き寄せて、腕のなかに包み込む。かたくて広い胸に顔を埋める。深呼吸をすると凛月のかおりが胸いっぱいに広がって、痙攣しそうになっていた喉がすとんと落ち着いていく。はあ、と息を吐き出したら、上手、と褒められた。
「今日のはなんだか、手放したくなくなっちゃうくらいかわいいね」
聡い凛月は知っているのだろう。真緒くんだけではなく、凛月ともお別れしようとしているのだということを、おそらく予感している。こうやってくっついていられる時間はあとほんのわずかにしか残されていないとわかっていながらも、体温を求めて触れ合わずにはいられないのは、愚かなことなのだろうか。