22.
がたんと扉が閉まった。硬い音が鼓膜を叩き、うとうととまどろんでいた意識が現実に引き戻される。目をさましたらまだ眠気が残っていた。昨晩はいつ眠ったのだろう。真緒くんに私が抱えている寂しさを指摘されてから、どうしても凛月と一緒にいたくて、真緒くんと一緒にごはんの準備をした。料理に慣れない私がどうにか作ったゼリーはちゃんと凛月のお腹のなかに収まったし、美味しいと言ってもらえたのは夢じゃない。
「それからどうしたんだっけ……」
身体を起こすと見慣れたリビングの光景が広がる。見渡したそこはきちんと片付けがされており、食べかすや空いたお皿などはひとつも残っていない。優しいだれかがお腹にかけてくれたタオルケットが床にばさりと落ちた。ソファで眠っていたはずの真緒くんに凛月がかけてあげていたものは几帳面に畳まれて隅っこに寄せてある。
玄関の扉を開いて駆け出す。いまにも門を出ようとしている真緒くんの背中にぶつけるように、大声で「真緒くん!」と名前を呼んだ。
「……、って、おい、そんなに走ると転ぶ……っ」
サンダルを引っ掛けただけの足だったので下手をしたら転んでしまいそうだった。踵を返した真緒くんの焦った声をどうにか聞いたけれど、注意喚起に意識を注ぐ暇もなく、顔から真緒くんの胸に飛び込んでしまったのである。
鼻が痛い。ぶつかった衝撃でふらりとよろけたら真緒くんに肩を掴まれて身体を支えられる。
「大丈夫か? どっか痛い?」
「鼻ぶつかった……」
「すごい勢いだったからなあ。ちょっと赤くなってる」
鼻を触りながら見上げた真緒くんは、昼前の白いお日様を背負っているからか、いつもよりもきらきらして見えた。
「真緒くん……。昨日は手伝ってくれてありがとう」
「俺はなにもしてないよ」
真緒くんは謙遜ばかりするけれど、いつだってたくさん助けてくれた。小学生のころに凛月の家を教えてくれてからそれは始まっていたし、死んでもなお、幽霊かもしれない私のもとにやってきておいしいデザートを買ってくれるのは、親しみがあって幸福だ。
「そんなことない。真緒くんが来てくれなかったらちゃんと凛月と話できなかったと思う。凛月とのことも、いろいろと思い出したよ。凛月に言えていないことがたくさんあって、私は駄目だね……」
ふたつの翡翠色は揺れることなくまっすぐとこちらに向けられている。なにも言わない真緒くんは、沈黙をもって私の過ちを認めているのだろう。
だけど真緒くんは、はっきりと言い切ってくれた。私がどんなときも凛月と一緒にいたことが、真緒くんにとって嬉しかったのだと。もちろんずっと幸福ではなかったけれど、その言葉がいままでの人生すべての救いになる。
「私、ちゃんと二年前に戻って凛月と話をしたい。だからもうすぐ帰るね」
「……うん」
「どうやったら帰れるのかは、全然わかんないんだけど」
わかっていても死んじゃうのは怖いし、だったらずっとここにいて凛月と暮らしたいと思ってしまうのだけど、二年前の私はもとあるべき場所に帰って、凛月にたくさんの気持ちを伝えたい。
背中を押してくれた真緒くんがくれたものが糧になっている。
「この間はわからないって言っちゃったけど、いまはわかるよ。真緒くんと会えたから元気になれたの。ほんとうにありがとう」
目頭が熱くなったけれど、泣くのにはまだ早いと思って慌ててうつむいた。そうやって懸命に堪えているというのに、真緒くんがおもむろに私の手を握ってくるのだから、お腹にぎゅっと力を入れて感情を誤魔化すはめに陥った。
真緒くんの手は大きい。大きくなった。この時間軸、この家でも、何度だって引っ張り上げてくれた手をとても大切に思う。真緒くんの手があったかいときは寂しいことや悲しいことを忘れられた。
「が元気になってくれたならそれだけでここに通った甲斐があったなあ。正直、ここ最近の凛月は見てらんなかったからさ……。俺はおまえたち二人が仲良くしているのを見るのが結構好きなんだよ」
かたい握手をするように、握られた手を握り返す。まるでお別れみたいだ。
「真緒くん、忙しいと思うけどちゃんとごはん食べてね。でも真緒くんの歌とか踊りが好きだから、これからもがんばってね。ずっと応援してるよ」
うつむいたままだった顔を上げて、きちんとお別れとしての「さようなら」を言おうと開いた口はうろうろとさまよって、一度閉じる。夏の似合う真緒くんと目を合わせると、さみしい言葉は喉の奥に落ちて消えてなくなってしまう。さようならは相応しくない気がした。音にしようとしても声にならなかったので諦めて唇を引く。
「……真緒くんと仲良くなれてうれしかった。だから真緒くんも凛月も、ずっと健康でいてね」
「わかってるよ、大丈夫だ。だからさ、も……、またな」
「うん。またね、真緒くん」
握りしめていた手が離れていく。真緒くんは門の先に足を踏み出した。私はその先に行けないので、真緒くんの背中が見えなくなるまで、ずっとずっと、汗ばんだままの手を振っていた。