20.
八月も半ばを過ぎたというのに気温はなかなか下がらず、夜になっても昼間の熱気が上空にわだかまっている。
さわさわと横髪を撫でる夜風は生ぬるい。凛月が貸してくれた服はサイズが合わないので、背中から風にあてられるとぞくっとする。もうすぐ短い夏が終わるのだ。
「凛月、おかえり」
門のそばで凛月を出迎えると、驚きではなく呆れた目を向けられた。
「……いま何時だと思ってるの」
「え、わかんない……。でもいつもより早く帰ってきてくれたよね」
眠気はあるが昨日ほどではない。月もてっぺんを過ぎていない。ほどよくあたたかい夜に凛月を待つのは苦痛ではなかったので、時間の経過はあまり問題ではなかった。
ただし、じとっとした視線を浴びせてくる凛月にとっては、私が寝ないで凛月を待っていることは問題であるようで、口をきゅっと横に結んで黙りこくっている。怒っているのではないだろう。纏う雰囲気は夜風と同じくらい柔らかいままだったし、勇気を出して指先を握っても振り払われなかったので、これはかなり自信をもって言える。
二年後を生きる凛月の指先。長くてきれいで、繊細なようでしっかりと硬い。
「で、今日はなにを話したいの?」
観念したように息を吐いた凛月が私の手にひとまわり大きな手のひらを重ねる。心臓がどくりと動いたのは、想像よりもぬるい体温のせいだけでない。
「違うの、言いたいことがあったんじゃなくてね……」
「欲しいものでもできた?」
「ただいま、は?」
「え?」
「凛月にただいまって言ってほしい」
せっかく一緒に暮らしているのに生活サイクルが違いすぎてまともな挨拶すらかわせていないのを寂しく思ったのは、いつまでもここにいられないのだと感じ取ったからだ。
「本気?」
「もちろん」
意気込みと一緒に手の力も増えて、凛月の指を強く握ってしまう。それでも微動だにしない凛月はものすごく呆れているのか、何度も何度もため息を零し、やがて小さく「ただいま」と呟く。
「待っててくれてありがとう、」
夜の表層をなぞるような穏やかな声に手の力が抜けていく。ここにしか居場所がないから、些細な挨拶が余計にうれしくなってしまうのかもしれない。
「よし、じゃあ次は夜ご飯ね」
「は?」
抜けそうな力をぐっと踏ん張り取り戻して、凛月の指を深く握る。
凛月の家は大きいので門から玄関までそれなりの距離があってよかったと思う。できるだけゆっくりと歩き、速まっていた拍動を歩く速さまで落ち着けた。息も上がっていない。
そして、いままで見た中で最大級に戸惑っているらしい凛月は案外黙ってついてきてくれている。
「あっ、あのね、夜ご飯、ちゃんと私が作りたかったんだけど……」
挨拶をかわすというのはおまけでしかなかったのに思ったよりも嬉しくて舞い上がってしまった。そのせいで次へのステップが嫌になるほど重い。なにも言わずにされるがまま、私の要望をすんなりと飲み込む凛月が新鮮すぎてどう接したらいいのかわからない。これは久しぶりに凛月とたくさん話しているせいだけじゃなくて、おそらく、昨日すべてを教えてもらったり、抱きしめられたりしたせいだろう。気を抜いたら顔が熱くなりそうだ。
「おかえり、凛月」
「ま〜くん?」
リビングに続く扉を開いた途端に真緒くんが声をかけるので、凛月は今度こそ驚いて硬直した。意味不明のオンパレードなのだろう、真緒くんをまじまじと見つめて「なにしてるの?」とぽかんと口を開けている。こんな凛月はものすごく珍しくて、凛月が真緒くんにしているように凛月を見つめてしまう。
「夜ごはんを用意するの、真緒くんに協力してもらったの」
「夜ごはん……って、これ、全部俺が作ったやつじゃん」
ダイニングのテーブルに並べた料理は凛月が私のために作り、食べきれずに凍って眠っていたものたちだった。彼が作るお菓子のように奇抜な見た目をしていないそれらは、しかし、ずらっと並べるとお祝いのために作られたような豪勢さを持ち合わせている。
「凛月のためになにか作ろうと思ってがんばってみたんだけど……、その、あんまり上手にできなくて」
携帯電話と制服だけでここにやってきた私にはお金もないので、過去の自分に材料費を付けて真緒くんに用意してもらい、オムライスを作ってみようとしたのだが、料理の才能がてんでないらしく、ちっとも美味しくなかったので愕然としたのである。美味しいものを美味しく作れる凛月に食べてもらうレベルのものが付け焼刃で仕上げられるわけもなく、努力は透明な泡となって消え去った。
「ほら、凛月なら知ってるだろ。俺の料理の腕も似たようなもんだしさ」
真緒くんの言葉に同調して頭をぶんぶんと縦に振る。
「ほんと俺たち、凛月がいないとだめだよ。だよな、」
「うん。ほんっとうに、凛月がいないとだめみたいだよ」
昼間に真緒くんに言われた通りだ。私はひとりで食事をするのが寂しくて、凛月の作ってくれたものを食べきれずにいる。ついでにひとりではろくなものを作れない。ひどく手のかかる人間で、まったく始末に負えない。
「私、凛月と一緒にごはんが食べたい。たぶん、今日も昨日も、ずっと前からそうだったんだけど……。真緒くんに言われるまで気づけなくてごめんね」
ひとりで寂しくなってしまって、ごめんね。
「……あ、こんな夜だし凛月がなんにも食べないんだったら、私が食べているところを見てくれるだけでいいから、だから凛月が眠たくなるまで一緒に」
一緒にいてほしいと言い終える前に凛月は席につき、行儀よく手を合わせて「いただきます」と言った。緊張をともなう告白に息が上がった私は浅い息を終えてようやく「え?」と疑問符を漏らした。棒立ちになっている私をよそに真緒くんまで席について嬉しそうに笑っている。テーブルの上に立てたキャンドルがふわりと揺れた。
「俺と一緒にごはん食べるんでしょ。も早くおいで」
ややずれた交わらない視線の先には凛月の料理がある。私のために凛月が作ってくれたものたちがあたたかくなって、ここにある。
「……うん!」
凛月のかたちのいい耳のてっぺんがわずかに色づいているのに気づいたら、ついに顔が熱くなったので、大急ぎでうつむいて手を合わせた。