16.
赤ちゃんはどうやったら生まれるのかと両親にたずねたことがある。まだ幼いころであった。保健体育で生命の仕組みを教えてもらうのはずいぶん先だったのだが、クラスメイトがおもしろおかしく話す性に関する知識であったり、大人びた漫画からの輸入であったり、親のいないところで行き交う情報は親が想像しているよりも膨大で、下世話だった。
仕入たての知識が正解なのかどうかを確かめるために、学校での出来事を話す延長で両親にたずねたのだ。おそらく両親は私の年齢とそれを知る頃合いかどうかを瞬時に照らし合わせて、いいえを選択した。そして、結婚して子どもができる準備をしたらできるのだよと当たり障りなく返答した。ほんとうの答えは未来の保健体育の授業に託したのだ。
真緒くんの核心の避け方は、両親のそれとそっくりだった。「また死んでしまうんじゃないかと思っている」とは、つまりは私と凛月がお別れをするきっかけが私の死によるものだと明確に言っているのに、真緒くんは断定をせずに凛月から詳しい話を聞くように言い聞かせ、百貨店で買ってきた値段の張るプリンを冷蔵庫にしまって帰っていった。
今回ばかりはプリンさえも喉を通らなくなった。水分だけは摂らねばとグラスに水を注いでリビングで凛月を待ち続けていたのだが陽の高いうちに凛月が帰ってくるはずもない。花壇も完成させてしまったので、けなげに咲いている花に水を飲ませてやるとそれで一日にするべきことは完遂されてしまう。
電子レンジであたためるだけの食事たちが冷蔵庫でねむっている。食べないと凛月が悲しむ。私がまた死んでしまうんじゃないかと思っているらしい。
「……どうしてなにも言ってくれないの」
額を冷たい扉に押し当てると、冷蔵庫がごうんと鈍く鳴った。
玄関先で身体を丸めてうたた寝をしていると、がちゃんと鍵が開けられる音がして浅い眠りから醒める。物音を怖がっているような控えめな扉の開閉音が次いで聞こえて、目を開いて待ち人の姿を迎える。
「……は? なにしてんの」
昨夜よりも驚いているようで、目を丸くして大きな瞬きを数回、まつげの音が聞こえてきそうなくらいに大仰な動きで繰り返す。変装用なのだろうか、帽子と伊達眼鏡を靴箱の上に置いてずかずかと歩み寄ってくる。
「おかえりなさい」
凛月の赤い双眸の近くにいこうとして立ち上がる。玄関扉の上のはめ殺し窓から淡い月光が注ぎ込まれて、凛月の表情を浮かび上がらせている。無機質な表情はいつだって心臓に棘を打ち込む。
「はおかえりって言いたかっただけじゃないんでしょ」
「今日、真緒くんが来たの」
日付がとっくに変わっているのかもしれないが、真緒くんの時計はリビングに置いてきてしまったから時刻がわからない。
うたた寝は一瞬だけではないだろう。うつつのなかで、凛月のつめたい声とやさしい声が交互に思い出された。永い、甘くて苦い夢のようであった。きっとそれなりの時間が経っている。
「真緒くんが変なことを言ってたよ。私がまた死んでしまうかもしれないって。また死んでしまうかもしれないって、どういうこと?」
玄関に立ち尽くし、靴を脱ぐのも忘れてこちらを眺めている凛月の顔は青白かった。しかし、動揺している様子は見受けられない。賢い凛月はこうなる未来を見越していたに違いない。真緒くんをここに送り込んだのも、ともすれば、真緒くんにあんな話をするように仕向けたのも凛月の思惑なのだろう。
「……私と喋りたくないの?」
静寂が重たく、空気が停滞している。凛月は玄関に上がるそぶりも見せずにただただ直立しているだけだった。
どこで間違えてしまったのだろう。凛月の作った食事を残さずに食べて、凛月の服を着ておとなしくしていればよかったのだろうか。日光が捌け、深夜に戻ってきた凛月におかえりなさいを言って、それぞれの寝床で眠る。そうして日々を連ねていく。一週間後も一ヶ月後も、そうやって幸せに生きていく。そうしたら凛月は元気でいてくれて私を避けたりしなかったのだろうか。私はこの時間軸にいるべき人間じゃないのに、それを正解だとこじつけて、凛月のそばにいるべきだったのだろうか。
凛月に向けてのばした手首をぎゅっと握り締められて喉が震えた。何度目かわからない、凛月からの明確な拒絶。
「……どうして、俺に構うの」
弱々しい声は低く掠れている。頰の白さは相変わらずだけれど、赤い目がわずかに揺れている。
「俺はなまえが知ってる俺じゃないからあんまり近づくなって言ったの、忘れちゃった?」
手首ごと心の根っこをぎゅうっと握り締められている。凛月の言葉は嬉しいものでも悲しいものでも、辛いものだとしても、すべてが脳に干渉してくる。
真緒くんと話をして、より一層凛月とちゃんと話をしなければと思い至った。花壇を喜んでくれなくたっていい。一緒に眠ってくれなくたって、向かい合ってごはんを食べてくれなくなってもいいから、凛月には元気でいてほしいのだ。
「そんな傷ついた顔、しないでよ」
突き放しておいて弱気な台詞を吐く。いつもよりも低い声には疲労が滲み出ている。
「だ、だって……」
目の奥から熱いものたちがいまにも這い出てきそう。ちゃんと話をしたいから凛月を待っていたのに、どうしていつも私は凛月の前で情けない姿ばかりを見せてしまうのだろう。
悲しいときやつらいときはずっと凛月に寄りかからせてもらっていた。凛月は慰めるような言葉をかけてくれなかったけれど、たまにピアノを弾いてくれた。穏やかな音色がこわばった夜をとろりと溶かしてくれたので朝を迎えるのが嫌で仕方がなくてもよく眠れたのだ。だから私は凛月がしてくれたぶん以上に、凛月が望むことをなんでも叶えてあげたい。
「わたし、は、ずっと、凛月のことだけが」
涙まじりの告白は凛月の手のひらに遮られて言葉とはならずに死んでいってしまった。肩にずっしりとした重みを感じる。凛月の頭が乗っけられている上に、凛月は力を失ったらしく、肩にかかる負荷は増えていくばかりである。とうとう膝を折り、床に尻もちをついてしまう。首筋にかかる息は細くて熱い。
「そんなふうに、目の前でふつうに泣いたり……笑ったりされると、困る」
二年分の途方もない思い出を抱え込んでいる凛月の声はもう無機質なんかじゃない。深くて暗い感情を刻み、ゆっくりと言葉を続ける。
「俺、もっとがんばるよ。のそばにいたいから、そのために、俺はどうすればいいの? ま〜くんは美味しいものを作ればいいって言ったけどだめだった。なにを作ったら食べてくれる?」
濡れた声に、忘れかけていた心音が高鳴る。いやな動き方だった。泣いているのだろうかと思って身じろいだがすぐに強く抱きしめられて動けなくなる。
「ずっとここにいてよ」
恐る恐る凛月の背中に触れると、手のひらを通して凛月が震えていることに気がついた。ゆるりと撫で付けると抱きしめられる強さが増えて息が詰まった。
「……私は、二年後のいまはもう生きてないんだよね」
耳のそばで凛月が頷いた途端に全身を支えていた糸が切れて、凛月の身体にすべてを託した。暗い事実を告げられてもいまこうして生きている身分としては実感という実感が湧かないが、凛月の声が震えてかなしみに満ちていたので、どうしようもなく泣けてきてしまう。
どくどくとうるさい心臓と、立っていられそうにないくらいにふらついた、ありとあらゆる神経系。
「は、二年前のの誕生日に死んじゃったんだよ。……お別れっていうのは、そういうこと」
凛月の肩越しにぼやけた月の輪郭を見る。この小さな月の下には、私はもう生きていないのだ。