15.
置き手紙さえ与えられなくなったのに、あれだけ冷たい態度をとった翌日も律儀に食事の準備をしてくれた。かたちの綺麗なおにぎりと、からあげと、サーモンのサラダ。鍋の中にはスープも用意してくれているのだろう。食欲がなくてあまり食べられないのだと察したメニューは控えめな量で、時間をかけながらなんとか半分くらい食べ切ったところでインターフォンが鳴る。真緒くんが今日もやってきた。
「おい〜す……って、なんか暗いな。カーテンくらい開けろよ」
凛月の家は黒い遮光カーテンで統一されているので、リビングも例外ではない。暗闇のなかでもそもそとひとりぼっちの食事を摂っていたら、真緒くんに勢いよくカーテンを引かれる。強烈な太陽のひかりがリビングに殴り込んできた。明暗の差に驚いて目をつむり、網膜を守る。学生のころ、真緒くんに起こされていた凛月は毎朝こういう目に遭っていたのだろう。
「まぶしいー……」
「凛月みたいなこと言うなよ。日光浴びないと不健康になるんだぞ?」
「寝起きなんだもん」
「寝坊したのか?」
「……ちがう」
拒絶された昨晩を思い返す。凛月に花壇ができたのだと伝えたくて、避けられているのだとわかっていたけれど眠らずに帰りを待っていた。それだけの願いだったのだ。まさか歓迎されず、さほど興味をそそられた様子もなく、冷たい声に追い返されるとは思わなかった。
心臓がくしゃくしゃに握りつぶされたみたいになって鼓動が不規則になった。呼吸がしづらかった。こらえながらも何度か泣いて、キッチンで濡れタオルをつくって瞼を冷やして、それでも耐えられずに泣いて、明け方くらいに半分気絶するように寝入った。
「凛月と喧嘩したんだろ」
「凛月がそう言ったの?」
眉をハの字に下げて苦笑することで肯定した真緒くんの重みで私ごとソファが沈んだ。
「あいつ、のことになると珍しく必死になるからなあ……。あ、そうだ。これお土産のプリン。食うだろ?」
今日のお土産はコンビニのスイーツではなく、百貨店に売っているブランド名がついたプリンだったので、欲に忠実な手が意識せずに動いた。少なくとも、高校生のお小遣いで気軽に買えるものではないので、しかたがない。だけど指先はプリンの瓶に触れる寸前で止まり、太ももの上に戻ってくる。
「いらないのか?」
真緒くんが不思議そうに首をかしげる。いらないはずなんかない。冷たくて甘いものは食欲がなくても喉をつるんと通るので、できるなら食べたい。甘くて手軽に食べられるお菓子には惹かれる。そうだ。凛月だって、惹かれると思っていたのだ。食べられた形跡のない手作りのお菓子たちが冷蔵庫に残っているのを確かめるのはどんな気分なのだろう。
「私、凛月にずっとひどいことをしているの。凛月が……凛月がね、元気がないの。花壇ができても全然うれしそうじゃなかった。私がごはんを残してばっかりだからだと思う。だから真緒くんが買ってきてくれるお菓子を食べる権利なんか、ない。せっかくだけど、それは真緒くんが食べて。ごめんね。買ってきてくれてありがとう」
一息に言いつらねたせいで動悸が早まる。はあ、と深呼吸をひとつ、昼間の自然光にあたためられる部屋にこぼした。
「なんていうか、おまえらって同じことで悩んでるんだな」
どきどきと鼓動をうつ胸をおさえて俯いていると、真緒くんが明るく言った。ただ無責任に明るいのではなく、お腹の底で思っていたことを吐き出すような真剣味を帯びていたので、すっと背筋が持ち上がる。真緒くんの表情をよく見ようと身を乗り出すと肩を押し戻され、また遠くなった。
「凛月はどうやったらが元気になるのかってずっと悩んでいるんだよ。何日も前からずっと、ずっとだ」
「私のことで凛月が悩んでいるの?」
「そう。だから言ってやったんだ。おいしいものを作ってやったら絶対元気になるって。は凛月の料理が好きだったからさ」
凛月の作ったものをふるまってもらうのは、私が生きていた時代でもたびたびあることだった。とくに、学校をさぼって凛月の家に籠城していたときなどはほとんど凛月が食事の用意をしてくれた。わざとではないのに空腹を訴える「ぐう」と鳴るお腹を無視しないくらいには、凛月は親切だった。それは凛月が誠実に私を好いてくれていたあかしなのだろう。
「ごはんを作ってもだめだった、がだんだん痩せてくって、死んじゃうかもしれないってめちゃくちゃ情けない顔してたなあ……」
「し、死んじゃう? なんにも食べていないんじゃないんだから、大げさだよ」
二年のあいだに凛月は心配性になってしまったのだろうか。それを言うなら、夕方まで眠りこけてまともな食事をほとんど摂っていない恐ろしい生活サイクルを生きている凛月のほうがよっぽど不健康なのではないか。
食事量の減少によりはかっていないけれど体重は落ちたかもしれない。だけど、見た目はさほど劇的に変化していないし、凛月はやっぱり大げさだ。
「凛月は、が死ぬのが怖いんだよ」
真緒くんの言っている意味がちっともわからないのに、不気味なベールに包まれたのっぺりとした恐怖がにじりよってくる。
テレビの音を排除しているせいで、いまの室内を満たすのは控えめな音量で流れるピアノ曲のみだった。ぱらぱらと可愛らしく弾けるのはきらきら星変奏曲。凛月はこれをよく弾いて聴かせてくれた。
かたい声についに背中がぴしりと硬直した。ぎゅっと握った手のひらが恐ろしさで汗ばんでいる。真緒くんの口が開かれる恐怖が頭のてっぺんから足の指先まで駆け巡る。
「ずっと……家にいるんだもん、死ぬはずないでしょ」
唇がみっともなくも慄いていた。話を進めるのが怖い。だけど、知りたい。この時代に来た意味と、凛月がなにを考えて私をここに閉じ込めているのか。
ひどい頭痛と強制的に誘われる気絶のために外の世界と干渉できない。未来の街並みに拒絶されているこの状況。凛月と真緒くんが私を二年前の人間であるとすんなり受け入れたこと。私と凛月が、ずいぶん前にお別れをしたということ。
緊張で心臓が皮膚を突き破りそうだった。鼓動が痛い。真緒くんの手が手の甲に触れてきてはじめて、自分の手が凍ったみたいに冷たくなっているのだと認知する。神経質に硬直した手の甲を真緒くんの節くれだった指に撫でられ、解される。
「……真緒くん。私と凛月って、どうしてお別れしちゃったの? 真緒くんはいまの私がなにをしているか知っている? それとも、私はもう、だれとも仲良くしていないの?」
芸能界にはいり、仕事をこなすうちに異性である私の存在が邪魔になる可能性は凛月たちが夢ノ咲学院を受験すると知ったときから頭に置いていた。ふたりのためにいつでも離れる覚悟はしていたのだ。
真緒くんはかたい表情をしている。顔色も悪い。悪い報せをもっているのだと、どうしようもなく隠しきれないくらいに顔がものをいっている。やがてその唇が薄く開かれれば、喉を苦いものが通過していった。
「あんなに一緒にいたのに高校を卒業したら縁を切るなんて、最低で最悪の、薄情者だ」
「……だったら」
「凛月は何年も前からいつだってを気にしていた。だけどいまが一番気にしている。が死んでしまうかもしれないって思っているんだ。また、死んでしまうんじゃないかって、思っているんだよ」