12.
真緒くんの時計の横に置かれた着替えと、丸っこいおにぎりが三つ。置き手紙には「どうぞ」としか書かれていない。どうぞ?
いつも通りであれば、凛月は私がお風呂からあがるのを待ち、遅めの昼食を一緒に摂ってくれたのに、今日は随分早く出ていってしまったようだ。浴室を確かめると湯気がいっぱいに上がっていた。分厚い蓋の下には熱めのお湯がたまっているのだろう。
素っ気ない言葉と、姿の見えない凛月。たまたま忙しくて早めに出なければならなかったのであればいいのだけれど、そうではない可能性に意識が傾いてしまう。私は凛月に避けられているのだろうか。
昨日「また来る」と言い残して去っていった真緒くんはアイスクリームの入った袋を提げて今日もやってきた。「また」が「次の日も」に繋がっているとは予想だにできず、気持ちを整理する期間があまりにも短すぎて、真緒くんに対して動揺する暇もない。
「元気ないな〜? ほら起きろ、だらしないぞ。花壇つくるんだろ」
凛月が握ってくれたおにぎりをひとつ食べてから重たい身体を引きずってなんとかお風呂に入り、ぼんやりと天井を眺めていたら、家主のゆるし無く入り込んできた真緒くんが視界に割り込んできた。
「……花壇はおやすみにしようかなあ」
「そんなこと言うなって。手伝ってやるから」
「うー……」
ぐでんと伸びた腕を引っ張られ、頭の下に敷いていたタオルで髪を拭われる。いつも凛月がドライヤーをかけてくれていたから、凛月がいないだけで髪さえも乾かせなくなってしまったのだ。由々しき事態である。
だらしなさが服を着て寝転がっているような人間を目の前にしたところで元祖世話焼き人の真緒くんが尻込みするはずもなく、真緒くんは手早くドライヤーを持ってきて私の頭を乾かし始める。凛月とはまた違った指の感触。体温と、手つき。幾分か丁寧なやり方に心地よくなって、遠くからやってくる生ぬるい眠気にまぶたが落ちそうになる。
「。寝るなよ?」
このまま背後に座る真緒くんに身を委ね、やさしい眠りにどっぷりと浸かっていたい。ぬるま湯のお風呂に何時間も浸っていられるような恒常の幸福感が、真緒くんにはある。
衣食住を凛月に依存して生活している私は、凛月といると心があっちこっちに忙しなく動いて落ち着けないのだ。「どうぞ」とだけ書かれた冷たいメモを見返す勇気はない。
「凛月がふたりになってしまったみたいだなあ」
世話が焼ける人間が増えてしまったと批難しているのだろうが、真緒くんはぬるま湯のような口調を崩さずに頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「凛月……」
くしゃくしゃになったタオルケットを畳み、ソファの隅に寄せる。
「凛月が、真緒くんに会ったら私が元気になるって、言った」
無機質な表情で突きつけられた言葉は三文字の書き置きと同じ温度をしていた。少なくとも、真緒くんがしてくれたような髪を弄る仕草とは似ても似つかない。
「俺に会えて元気になった?」
「……わかんない」
「そこは元気になったって言ってほしかったなあ」
頰をかいて苦笑しているが、あっけらかんとした声が心の澱を丁寧に取り除いていく。
まだ日が高い。ときどき子どもの賑やかな声が夏風に乗って聞こえてくる。外はきついくらいに暑そうだ。
真緒くんが乾かしてくれた髪を隠すようにして凛月の帽子を被る。そうすると満足そうに笑う真緒くんは、どうしようもなく真緒くんだった。
「真緒くんが会いに来てくれてすごく嬉しい。でも、凛月が元気じゃないのは……かなしい」
素直な内面を吐露してしまえば息が軽くなり、肺にたまっていた濁ったものたちを唇の隙間から逃した。
にっこりと笑った真緒くんがせっかく被った帽子を奪い取る。そして嬉しそうに私の頭をかき回す。台風の猛威を受けた直後のようになった髪が渦を巻く。
「わかるよ。凛月っていろんなやつに気を許すタイプじゃないから、嬉しいとかかなしいとか見せられたらなんとなくつられちゃうんだよな」
「ええ……? そういうのとはちょっと違う気がするけど」
昼間なのに薄暗い廊下を裸足で歩く。足の裏がぺたぺたと冷たい床にくっつき、離れた。すっかり履き慣れたサンダルを足に引っ掛けて扉に手をかける。
日光から頭を守るべき帽子を持つ真緒くんを見上げる。真緒くんはきっとこのまま花壇をつくるのを手伝ってくれるだろう。私の知っている真緒くんは、何年もそういう人間として成り立っていたのだから。
「真緒くん。やっぱり花壇はひとりでがんばってみる」
凛月に避けられてあまり話せなくなったとしても、凛月のためになにかをしてあげたいという気持ちは決して死なない。
置き手紙はすべて大切に仕舞っておこう。緊張しても、幸福でなくても、凛月がいてくれたらいいのだ。
「わかった。でも、いつでも助けてやれるんだからな」
「ありがとう。真緒くん」
ようやく被せられた帽子に隠れた目がじわりと熱を持ち、些細な粒が解けるように大気と混じり合った。