9.





 中学校は公立で、当然、家が近所の真緒くんと同じところに進んだ。ひとつ上の学年には凛月がいる。相変わらず凛月の睡眠欲は強く、登校を拒否したり登校しても夜まで眠っていたりしていた。

 真緒くんとはあまり会話をしなくなった。小学生の夏にちょっとしたいじめにあったのをきっかけに、私のほうから真緒くんに話かけるのを控えるようになったからだ。
 夏休みが終わってすぐにあった席替え。遠く離れてしまった机と机。真緒くんに会わないように走って帰ったりもした。このとき、私は浅い知識を総動員させて、いかにして真緒くんと関係を持たずに生活できるかたくさん悩み、行動にうつして、奮闘していた。努力が功を奏し、仲間はずれは解かれて小学校を卒業するころには友達も復帰してきた。そのかわりに話しかけようとしてくれた真緒くんを幾度となく無視して傷つけた。友だちがいるのに、つらくて、悲しくて、眠りながら泣いたこともある。
 私にはどんなことがあっても凛月が味方でいてくれる。心の拠り所は凛月の部屋にしかなかった。


「約束してた漫画の続き、真緒くんが貸してくれたよ」

 中学校での真緒くんは部活や委員会、その他のこまごまとした用事で忙しそうにしていたので、意図せずとも話しかける機会には恵まれなかった。あえて無視をしなくてもいいという理由ができて、汚くも安心した。

「ま〜くんとしゃべったの?」

 ベッドに寝転がりながら見上げてくる凛月は制服姿だ。今日はちゃんと学校に行ったらしい。

「しゃべったけど……」
「ふうん。でもよかったじゃん、学校でもしゃべれるようになったんだ」

 漫画を渡しておいてと頼まれただけで「しゃべれた」うちには入らないだろう。小学校よりも、中学校のほうが男子としゃべっていたら目立つような気がしたので、陰口には以前よりも警戒していた。誰と誰がつきあっているかとか、誰が誰に片思いをしているかとか、そういう話がひそひそと交わされているのを知っている。噂話の登場人物にあがり、心のない言葉で刺されることがなによりも恐ろしかった。

「漫画ありがと」

 男の子が描かれている少年漫画らしき一冊はベッドサイドに置かれる。

「読まないの?」
「うん。寝起きだし今はいいや。それよりこっち来て」

 にっこりと笑って手招きをする凛月の顔にはあまり眠気が浮かんでいない。漫画を読めばいいのにと口答えなどとてもできず、おずおずとベッドに近寄るとものすごい力で腕を引かれた。ぎしりとスプリングが軋む。凛月の足を跨ぐようにして馬乗りになり、今しがた引き寄せてきた男の子の顔を見下ろす。おもしろいものを見つけたような笑顔に塗り固められているが、目は触れるとつめたそうな色をしている。

「り、凛月……。怒っているの?」
「怒ってなんかないよ」
「うそ」
「なんで嘘だって思うの?」
「だって……顔が」

 こわい、と言いかけて口を噤んだ。あのうだるような夏の日に、凛月は私の味方でいてくれると宣言した。そのときに凛月は私に条件をとりつけた。が俺を怖がらないでくれるなら、の味方になってあげる。ゆったりとした口調で、はっきりと約束を結ばせた。
 怖がったらもうここには来られなくなるのだろう。凛月はきっと私の胸を押して家から追い出し、金輪際部屋の扉を触らせてくれなくなる。最悪の事態は容易に想像できた。

「……顔が、なぁに?」

 わざとらしく問いかける凛月の目を見ないようにして、頰を包んで馬乗りのまま口付けた。凛月の唇は存外あたたかい。

、口開けて」

 口付けは何度もしていた。はじめてがいつだったかはもう思い出せない。この関係が恋愛なのかなんなのか明確に分類できるものではなかったから、いつも触れるだけのキスだったというのに。
 薄く開いた唇を割るようにして入り込んできた舌の感覚に戦慄く。ぬるりとしたそれは唇とは段違いに熱い。空気を吸う隙間がない。怖い。後頭部を抑えている手が逃げ道を潰しており、苦しさに目尻が熱を持ち始めた。凛月の舌が予測不能の動きをして口内の敏感な部分を撫でるので、とうとう甘えるような声が鼻から抜ける。すると目尻で止まっていた熱が顔中に広がり、恥ずかしさのあまり涙がぼろぼろと頰を伝った。

「怖い?」

 酸欠でぼうっとした頭を横に振るとくらりとした。つめたい手が内腿を撫でる。本当はすごく怖いけれど、怖いとは口が裂けても言えない。それは、真緒くんと同じように、凛月も離れていってしまうことのほうが怖いから。

「……泣かないでよ」

 頭がくらくらするので目を閉じて涙を拭っていると、表情の読めない声がぼんやりと聞こえた。ごめんなさい。掠れた謝罪は涙が混じって不細工に響く。
 怖がっていないと思わせたくて目を開きたいのに、体が震えて筋肉がいうことをきかない。凛月の肩をぎゅっと握って浅い息をする。「泣かないで、」背中をぽんぽんと叩かれる。一定のリズムは凛月のつめたい目を忘れさせるほどにやさしく蕩けていた。





 スコップを地面に突き立て、ぐっと力を入れて掘り起こすと土のにおいが鼻腔いっぱいに広がった。
 凛月が用意したガーデニング用具一式に紛れていた本に書いてあった内容に従って、土の中の小石や雑草を取り除いていく。花を植えるのにこんな下準備がいるなんてガーデニング入門編の私には驚きだったのだが、土をいじっているとちょっとは気が紛れた。花壇をきれいにして花でいっぱいにしたら、凛月は喜んでくれるだろうか。昨日、いとおしそうに花びらを撫でていた凛月のやわらかい横顔を反芻する。
 今日もあまり食べられなかった。凛月の家だけが行動範囲である私は消費するエネルギーがかなり少ないので多少食べなくても差し支えはないだろうが、凛月の表情を曇らせているままでいたいのではない。

 どうしよう。とにかく、はやく花壇を完成させなきゃ。
 膝につけた額が汗で湿っている。後頭部をじりじりと焼く太陽が痛い。


「帽子かぶらないと日焼けするぞ」

 凛月のものではない声が頭上から降ってきたとき、スコップを持つ手がはっきりと硬直した。鼓膜を叩く声は懐かしい。草の隙間で鳴る夏の音が遠ざかっていく。
 これが誰の声かなんて、顔を見なくてもすぐわかる。

「……真緒くん」

 二年後の世界に住む真緒くんは困ったように笑って、手をさしのべてきた。