8.


 日毎に憂鬱が増していく。寝床は完全に分けられ、凛月は昼から夜中まで「仕事」に出かけているので、あまり言葉を交わすタイミングがない。つまり、凛月は家にいるあいだはほとんど眠って過ごしている。
 もとの時代に帰る手段なんて考えたところで思いつくはずがない。とはいえ、なにもしていないと気が滅入っていく一方だったのでテレビをつけてみたが、お昼のバラエティ番組に凛月が所属しているユニットのメンバーのひとりが出ていたので、すぐに電源を落とした。
 未来はあるべきかたちに成り立っている。どんなひとでも余すところなく変容している。良い未来も悪い未来も、膨大なエネルギーの流れに沿って流れている。
 恐怖に意識がさっと凍りついてしまいそうだったので、それからは未来の情報をたくさん孕んでいるテレビの電源を一度もつけていない。

 それからの私といえば、凛月の本棚から読んだことのある漫画本を何十冊も持ち出してリビングに置き、ひたすら読みふけっていた。ついでに真緒くんの時計もテーブルに置いて、むかし凛月がよくピアノで弾いてくれた曲を口ずさむ。もとから知っているもので身の回りを固めるとなんとなく安心できたのは一種の逃避だろうか。だけどそうしないともっとふさぎ込んでしまいそうだった。


「花壇をつくろう」

 いつも通りの短い食事を終えたあとに凛月が脈絡なく言い出した。

「花壇?」

 長年ならされずに固まってしまった土を思い出す。凛月の家は綺麗だし庭に雑草こそ目立ちはしないが、花のように手ずから飾られているものはひとつも見当たらず、全体的に無機質な印象が強い。
 小学生の自分に凛月と出会い、お家にもちょくちょくお邪魔しているけれど一度も花壇に花が植えられていない。放置されていた花壇をどうにかしようだなんて、どういうつもりなのだろう。

「広い庭があるのに花を植えないのはもったいないって、だいぶまえにが言ってたのを思い出したんだよ。花を植えるなんてめんどくさいけどさあ……かなり退屈なんでしょ。元気なときでいいから、暇つぶしに花壇つくろうよ。気晴らしになるかもしれないしねぇ?」

 今日の仕事は夜になってからのようで、いつもよりも長くゆっくりできるという凛月に手を引かれて外に出た。足の裏にすんなりと馴染むサンダルをつっかける。庭に出て散歩をすることが多いので、凛月はフラットで歩きやすいサンダルを買ってくれたのだ。夕方の風がやわらかく髪を揺らす。

「じゃーん。花の苗、たくさん買ってきたんだよ。ガーデニング用品も一式揃えたから、これでなんとかなると思う。がんばろうね」
「すごい、たくさんのお花」

 赤、黄、白、ピンク、青、さまざまな色の花の苗と、新品のガーデニング用具。地面にしゃがみ込んだ凛月は花びらを指の腹で撫でて「かわいいでしょ」と微笑む。凛月の笑顔を久しぶりに見た。顔を合わせる時間がものすごい勢いで減少してしまったからだけではなく、私がひとりで沈み込んでいたせいで凛月に迷惑ばかりかけてしまっていたからだ。
 じくじくと腹の底が熱くなる。呼応するように、目尻も熱くなったが唇をかんで涙をこらえた。

「おいで」

 凛月のやさしい声に引き寄せられ、花に顔を近づけた。見ただけでは花の名前は言い当てられないけれど、甘くていい匂いのする小さな花は触るとみずみずしい。
 鼻をすすって膝を抱える。凛月の指に誘われるがまま花に触れれば、しっとりとした花びらが皮膚にくっついた。

「……花を植えないともったいないって私が言ったの?」
「うん。その様子だと覚えてないみたいだけど、俺は覚えてるよ」
「いつくらいのこと?」
「中学生だったかなあ。が中学生で、俺はもう高校生になってた」
「そうだったんだ……」

 学校でいやなことがあったときによく凛月の家に逃げ込んでいた。枯れた花壇に花が咲いていたらそれはもうとても美しい庭になるだろうが、いつしか枯れた庭に目が慣れて、もの寂しい花壇が放置されている庭に足を踏み入れると安心するようになったのだ。
 まさか、凛月に「花を植えないともったいない」なんて言ったとは。それも凛月のもとに通い慣れてしまっている時分である中学生のときの発言だとは思いもよらない。

「たぶん、には忘れてしまっていることがいくつかあるんだよ」
「え?」

 斜めに差し込む夕陽が、凛月が買ってきた花の苗に暖色を溶け込ませている。呼吸を忘れて凛月の赤い目を見つめていると、夏草の匂いを孕んだ風がふたりの髪を揺らした。前髪を乱された凛月がくすぐったそうに目をつむり、合わさっていた視線は外れる。どっと心臓が動きだす。急速にめぐる血液がおでこに汗を滲ませた。

「そろそろ出かける準備しないとねぇ。今すぐにじゃなくてもいいから、気が向いたら花を植えてみて。あと晩ごはんも作っておくから、それも気が向いたら食べて」

 立ち上がった凛月はぼさぼさになった前髪を手で簡単になおしている。もっとなにか言いたそうな表情をしているくせに、結局なにも言わずに家の中に入っていってしまった。
 人差し指にちょんと触れた花は皮膚に吸い付く。花を植えたことなんてないけれど、花を選んでいる凛月の姿を思い浮かべると胸がきゅっと閉まる心地がしたので、がんばって花壇をつくってみようと素直に思えた。