5.


 頰に温かいものがぽつぽつと落ちてくる。こんなにも眠たいのに。寝かすまいとするように落ちてくる水滴がくすぐったくて身をよじった。そうしていると頰に水滴ではない、なにか別の、温かいものが降ってきた。温かくて柔らかいもの。水よりもずっとやさしいものは、だれかの体温によって生きているもの。

 凛月のベッドで目をさましたとき、もとの時代に戻ってきたのかと思った。
 ぱちぱちとまばたきをするごとに鮮明になっていく視界が、紛うことなく間近に迫った凛月の寝顔をうつしている。この男はつい数時間前、私に「近づきすぎるな」というような意味合いをもって脅しをかけてきた男なのである。だから離れようとするのに、背中に回されている腕が強くて抜け出せそうにない。ひとつのベッドで抱きしめられて眠るというのは近づきすぎなのではないだろうか。

「……凛月、凛月。朔間凛月」

 すっきりと通った鼻筋に唇をくっつける。目を伏せた凛月の睫毛は長い。
 私とお別れをしてしまっている凛月は二年前からやってきた私から距離をとろうとしているので、くっついて眠ることは絶対にありえないのだけれど、私がいま着ているものは凛月が貸してくれたシャツとハーフパンツで、もちろん下着をつけている感覚はない。肩に貼り付けられている湿布の他に、腕にべたべたとくっついている絆創膏の存在がより現実味を際立たせる。夢からさめても、ここは二年後の未来だ。

「どうしたの、。怪我が痛い?」

 いたわるように後頭部をするすると撫でてくれる手が気持ちよくて、いけないとわかっていながらも凛月の胸にすり寄った。

「ちょっと痛い。私どうしたの?」
は裏門で寝てたんだよ。また倒れたんだねえ。そりゃあ寝ててって言ったけど、外で寝てほしいとは言わなかったんだけどなあ……? 虫に刺されたらどうするの」

 ずきずきと痛むのは倒れた拍子にできた小さな傷たちだろう。前回よりも軽い怪我で済んだのは、倒れ込んだのがアスファルトではなく裸の地面だったからかもしれない。柔らかい土と草の香りを、気絶する寸前に吸い込んだ。
 凛月に擦り寄る私の頭はないがしろにはされず、よしよしと慰めるように撫で続けられる。そのうち拒否されるものだと予想していたがそうされる気配はない。
 ぴっちりと閉じられたカーテンは窓からひかりが差し込むのを妨害している。照明は当然のごとく落とされている。凛月の肩越しに見つけた時計が示すのは嘘みたいな早朝だった。

「私、ずっと外にいたの……?」
「うん、そう。俺が帰ってくるまでずうーっと外で寝てたの。死んじゃったのかと思った」
「元気だよ」
「そうみたいだねえ。でも顔色が悪くて、呼んでも起きなかった。は何度俺の心臓を止めれば気がすむの?」
「外で寝るつもりじゃなかったの。外に出ようと思ったら頭がすごく痛くなって……、それからたぶん、意識がなくなったの」

 ぴたりと止まった凛月の手に動揺を読み取った。二度も凛月の前で気絶したのだ。お別れをしたあとに少しでも心を乱してくれるのはとても嬉しいが、自宅の敷地内で人間が倒れている姿を見せつけられるのは気分がいいことではないだろう。「ごめんなさい」と言えばいいのかわからず、もう一度だけ凛月の胸に額をこすりつけた。こうしていると、頭をそっと押して退かされるのを望むと当時に、また、私のことを好きになってくれたらいいのにと身の程を知らないことを願ってしまう。

「外に出ようとしたの?」

 眠気を抑えた声で言う。仕事で疲れているのだろう。

「未来がどんなふうになっているか気になったの。でもできなかった」
「できないってことは、しなくてもいいってことなんじゃない?」
「未来を知らなくてもいいってこと?」
「ろくでもないことを知ってしまったらショックでしょ?」
「それは……もう知ってしまった気がする」

 他に凛月とお別れする以上にろくでもないことが起こるはずがなかった。凛月はこうして健康に生きているし、仕事にも就いている。料理や洗濯ができる。ここに私がいないだけで、凛月は凛月の生活を滞りなく巡らせている。
 小学生の頃からずっと一緒にいたのに別々の道を歩くだなんて実感がわかないが、これは、必ず、いつかは出会う未来。

「……そっか。じゃあ俺はにかわいそうなことをしたんだね」
「でも心の準備をする期間はできたから、いいよ。過去に戻れたらの話だけど」

 未来にやってきたきっかけというものがないので帰り方などわからない。帰れるのかどうかもわからない。そして、いつか凛月とお別れをする未来が待っている過去に戻ることが怖くもある。
 眠たいのだろうか、凛月はぴったりとくっついて離れない私をちゃんと抱きしめてくれており、ときどきあくびを挟みながらも話に相槌をうっている。

が過去に戻れるまでずっといさせてあげるから心配しなくていいよ。一人暮らしにも飽きてきたところだったしねえ……。まだ若いをお世話するのも楽しそうだし、まあのんびりしていってよ」

 饒舌に言い切ったらこてんと眠ってしまった凛月の言葉はどこまでが本気なのかわからないが、凛月はこれで結んだ約束は絶対に破らない旨を信条としているので、当面の衣食住を守られたことに安堵する。
 怒られるかもしれないとわかっていながらも、触れたい衝動には抗えなくて凛月の頰に口づけを落とす。胸がきゅっと痛くて泣きそうになるまですべすべとしたやわらかい頰に何度も触れていた。


 二年後の未来についてわかったこと。それは、私は凛月の家から出られないということ。後日、凛月が「仕事」で外出している隙を見計らって敷居をまたごうとしたらやはりあのときのようにひどく頭が痛んだのだ。今回ばかりは私も学習して門に縋り付きながら実験を行なったため気絶は免れたのだけれど、痛みをやり過ごすためにその場に数十分うずくまる羽目になった。
 つまり、私は凛月の家の敷地内から出ようとすると頭が痛んで気絶してしまう。気を失って凛月の心臓を止める趣味はないし、なにより頭の痛みが半端じゃなかったので、それからは下手に敷居をまたぐのをやめた。

 凛月とお別れをした理由を訊く勇気はなかった。あとになってわかったことなのだけれど、もうすこし早くその理由を知っていたら、私は凛月に甘えるように擦り寄ったりはしなかっただろう。悔やんでも悔やみきれない。