4.


 気絶するように眠り、かなり短い時間の睡眠から目が覚めるとまだ夜だった。
 二年後の未来に跳んできてしまった私の拠り所は凛月しかいないのに、その凛月は忽然と姿を消している。この部屋の持ち主はどこで眠っているのだろう。

 勝手知ったる朔間家をずんずんと歩き、凛月の捜索にあたる。光に弱い住人のために室内灯が暗めに設定されているらしく、ぺたぺたと裸足のまま歩く広い廊下は影からなにかが飛び出してきそうで恐ろしい。凛月の家を「おばけの洋館」だと信じていた小学生の頃を思い出す。かたくて大きなランドセルを背負い、真緒くんの半歩後ろで身を縮めながら凛月の家へやってきた。あの夢のような夏休みが終わってからは、ひとりで凛月の家に通っていたのだけれど。


 へ。
 目が覚めた? なにか食べられそうだったら適当に食べていいよ。俺は仕事でたぶん明け方にならないと帰らないから、食べたらちゃあんと寝ること。


「仕事?」

 ダイニングの大きなテーブルにちょこんと書き置かれたメモを矯めつ眇めつする。肌に馴染まない単語をしばらく反芻してようやくその意味が像を結んだけれど、それでもなかなか飲み下せない。

 凛月が社会人になっている?
 高校二年生の時点からの二年後だと順当にいけば卒業しているはずだけれど、凛月が順当に卒業している未来にあまりぴんとこない。あまつさえ労働に勤しんでいるだなんてさらにぴんとこなくて、メモを握ったまま立ち尽くしてしまう。

 明け方にならないと帰らない仕事とはどういうものなのだろう。私は凛月と違って普通科に在籍していたからアイドル科の実情には疎いが、おそらく私が知っているよりも、うんと、ずっと、凛月は芸能に長けているのだろう。私の前ではあまりダンスを見せてくれなかったけれど、ピアノや歌は何度も聴かせてくれた。そういう凛月にしかできないかけがえのないものがたくさんある。

「……今日だって、私の誕生日だったんだけどなあ……」

 お別れをした人間の生まれた日なんて忘れてしまったのだろう。やるせないほどにさみしいけれど、そういうものなのかもしれない。
 あと三十分もすれば日付が変わる。凛月が用意してくれたらしいサンドイッチを一口齧ったが込み上げてくる切なさに似た虚無感が喉につっかえて苦しい。どうにかして口に含んだ分は飲み込み、息を吐いてから外に出る。しんと静まり返った夏の夜は風がぬるく月が明るい。星がみつからない。
 小学生の頃に凛月が教えてくれた歌を口ずさみながら、冷たい地面を踏みしめて歩いていく。かろうじて雑草をどうにかしただけの、しかし、花を植えたらさぞ立派なお庭になるはずの敷地をまっすぐに歩いて裏門へとやってきた。

 ちょっとした好奇心だった。二年後の未来の町はどれだけ変化しているのか、そしてこれが大部分なのだけれど、凛月とお別れした私がどんな生活を送っているのか知りたくなったのだ。ただ、それだけだったのに。
 百回以上跨いだことのある敷居を飛び越えようとした途端に後頭部が強く殴られたように痛み、門扉にすがりつくことすらできずに、そのまま意識を失った。





 小学生の私がうろ覚えの道を息を切らしながら走っている。頬は涙に濡れていたし、膝には擦り傷ができてしまっている。気持ちばかりが急いでいたせいで足がもつれて転んでしまったのだ。

「……りっちゃ……ん」

 一度目に会ったきり夏休みを終え、二度目に顔を合わせたのは新学期の初日だった。気安すぎる呼び方に案の定顔をしかめた凛月は、真緒くん以外にそのあだ名で呼ばれるのに不快感をおぼえただろう。すぐにでも追い出してやりたかったのかもしれない。

「……泣き声がうるさいから泣くなら外で泣いててほしいんだけどなあ……。血のにおいもするし、早く帰ってママに怪我の手当とかしてもらったほうがいいんじゃない?」
「スカートのすそ、汚しちゃったから、帰れない。怒られちゃう……」
「はあ? そんなの俺に関係ないじゃん。ていうか、この部屋に入っていいのはま~くんだけってこの前も言ったんだけど。なに勝手に入ってきてんの?」

 ぼろぼろと零れる涙を止める方法がわからない。頬は拭っても拭っても濡れていく。走り過ぎたせいか酸欠になってしまったみたいに頭がぼうっとして床にしゃがみこむ。ぐったりと崩れた頭は膝にくっついて怪我の痛みを増長させた。
 ねえ、ちょっと……と凛月の心底迷惑そうな声を聞いても、それがどんなに感情の籠もったものであろうとも、とてもその場から動けそうにない。

「……あのね」

 考えるよりも先に言葉が出てしまったのは、幼かったからだろうか。とにかくこのときの私は全身が熱く煮えたぎっており、かと思えば心臓を瞬間冷却されたかと思うくらい悪寒が走り、手足がきちんとくっついているのか不安になるくらいに存在に自信がなかった。
 そうだ。友だちに話しかけて知らんぷりをされたとき、全身がきゅっと縮んで目眩がして、生きていない心地になったんだ。

「ま~くんのこと独り占めにしてるって思われたんだ?」

 意識をして話を繋げていたのではなかったけれど、凛月は断片的な言葉からだいたいの事情を察してくれたらしい。私の話なんて興味ないだろうし、聞いていないと思っていたのに、だるそうに横にしていた身体をいつのまにか起こして、ベッドの上から私を見下ろしている。
 目をこすりながら凛月を見上げる。涙で滲んだ視界の中にいるのは、おもしろいおもちゃを見つけたときにするような愉快さに支配された赤い目だ。

「それで仲間外れにされて、悲しくて泣いてるの?」

 今から思えば、単純で幼く、深刻さに欠けた薄い仲間外れだったのだけれど、仲良くしていた子に口をきいてもらえないという事態に直面した瞬間に、足元が取り返しのつかない音を立てながら崩れていった。嫌われていないことを願っていないとゆったりと息も吐けない。
 もてている男の子のそばにいるということ。仲良くなりすぎたということ。ことの重大さを知った私はどうしようもなくなり、沈鬱そうな洋館に住む凛月の部屋に逃げ込んでしまった。

「……ごめんね。りっちゃ……凛月くん、眠たいのに、ごめんね」
「あんた、名前なんていうんだっけ」

 たくさん泣いたおかげか、あるいは話を聞いてもらえたおかげか、気持ちはいくらか落ち着きを取り戻していた。目は赤くなっているだろうけど、公園の水道で洗ってしばらくしたらましになるだろう。親に心配されないようにと一生懸命計画を立てながら立ち上がると、ベッドから動かないまま手を伸ばしてきた凛月に引き止められる。手首を掴む手は人肌にしてはひんやりとしており、しつこく残る暑気を忘れそうになる。あんなに帰ってほしそうにしていたくせにどうして阻まれるのか、わからない。



 首を傾げながら名乗ると、凛月はにっこりと笑った。

「ああ、そうそう。そんな名前だったねぇ。ねえが俺を怖がらないでくれるなら、の味方になってあげる」

 悪い話じゃないでしょと楽しげな声で持ちかけてくる凛月がどんな気持ちでいたのかを、小学生の私はまだ知らない。ただ目の前に落とされたひとかけらの救いにしがみつくのに必死で、何度も首を縦に振ってから、凛月の手に砂利で汚してしまった自分の手を重ねた。