1.
すべらかなシーツに頰をぴったりとくっつけながら、遠くから聞こえる音に耳を澄ませる。昨夜、一緒に選んだお味噌汁の具はなんだっただろう。まどろむ意識に流れ込んでくるのは、朝食のやさしい匂い。ぱたぱたと足を動かす音。間延びした陽光のような声が、私を呼ぶ。
○
もしかするとだけど、凛月は私の誕生日を忘れているのではないかと思い始めていた。放課後になっても教室にやってこないと真緒くんが苦く言っていた。あの丸い頭は真緒くんの苦悩など考えもせずに眠りにどっぷりと沈んでいるに違いない。
凛月が日付という概念を大切にしているようには思えないし、記念日といわれるようなものごとをかたく守り、盛大にお祝いするほど気力があるとも思えない。あと二ヶ月あとの凛月自身の誕生日でさえ、凛月はちゃんと憶えているのだろうか。
というか、そうじゃなくって、今は凛月がどこにいるのかが気になってしょうがない。
「……だあ」
想像通りに体育館裏で眠りこけていた凛月はのんびりとした口調で私の名前を呼び、表情をほころばせて腕を伸ばしてくる。
朔間凛月という人間(本人は吸血鬼だと言い張るけれど)は誰かに甘えるのが上手で、それは誰にでもというわけではなく、気心の知れた人物に限られている。たとえば、凛月の幼馴染や、凛月が所属しているユニットのメンバー、この春に転入してきたプロデュース科の女の子。そのほかにもたくさん。凛月は同じ学校に通っているけれど、隔てられた壁の向こうできちんと輪をつくっている。
だからこうして腕を伸ばすのだって、小さい頃とは違って私や真緒くんだけじゃないはずなのだ。日に焼けない肌が白く、いかにも冷たそうであるのに凛月の腕がお日さまと同じくらいに暖かいということを知っているのだって、幼馴染だけが知るものではない。
「抱っこはだめ」
伸びてくる腕に触れず、そっと除けてから凛月の頭の近くに腰をおろした。ひんやりとしたコンクリートの地面は体育館の影に守られており、夏だというのにとても涼しかった。凛月は寝心地の良い場所を探すのが上手い。それは小学生の頃に気づいた、それよりも前から凛月に染み付いている凛月の特技だ。
「抱っこじゃないよ。やさしい恋人がを甘やかしてあげようって思っているだけなんだけど、不満なの?」
甘やかされるよりも先に誕生日について触れてもらいたい私は、もはや意地を張った心地で座ったまま体をずらして凛月から離れ、はやく帰ろう、と言う。寝転んだままこちらを見上げてくる凛月の赤い目は眠気混じりにとろんとしている。
「……だめ」
「ふうん……? は昔っから甘えたがりなのに、我慢しちゃうんだ」
甘えたがりなのは現在進行形で凛月のはずだ。言い返さずに手持ち無沙汰となった手でスカートのプリーツを撫でる。
もしも凛月が甘やかしてくれるのだとしたら、誕生日くらい日付が変わった瞬間に祝ってほしい。きっと凛月に預けるには重たすぎる思いをぐっと飲み干したら口の中に苦さだけが残ってしまったのだけれど。
「今日は先に帰ってるね」
たまらない思いで立ち上がると読めない瞳をめいっぱい浴びてしまい、もう居たたまれなくなってしまう。
「……晩御飯はおうちで食べたほうがいいよ」
いくら話を引き延ばしても凛月の口から「誕生日」という言葉が出てくることはなさそうだったので、ひとりでとぼとぼと帰ろう、帰り道で真緒くんに会えたらいいけど、真緒くんだって忙しいのだから結局ひとりになってしまう気がした。
そうして踵を返す直前のこと。手首をぎゅっと握る手の強さに少しだけ骨が軋んだ。凛月が地面に横たえていた上体を起こして、私の手首を掴んでいる。白い半袖のシャツから伸びる傷ひとつないきれいな腕はつくりものめいているのに、こうして私を繋ぎとめられるのだ。
「」
凛月が私の名前を呼んだ瞬間に、体育館の影の中にいたはずなのにぴかんと強い光が網膜を焼き、思わず目を瞑ってしまった。カメラのフラッシュに似た瞬間的な光だった。もちろん学院の敷地内(それもアイドル科の敷地)でいやがらせのようなカメラ撮影に遭遇しないだろう。だったら、これはなに。
目を守るために閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。いつのまにか消えていた蝉の鳴き声がだんだんとよみがえる。一番先に手首を見れば、そこはなににも捕まえられていない。
「……え?」
それだけではなく、凛月自身がいなくなってしまっている。もっと悪いことに私がいたのは体育館裏なのに、今いるのは住宅街の真ん中だ。
電柱にとまって鳴いていた蝉が羽音を立てながら飛んでいった。家たちは夏の勢力から閉じこもっている。ごうん、と室外機が息をした。
ワープでもしたのだろうか。それとも夢の中の出来事なのだろうか。突然の場面転換に頭がついていかれず、湧き上がってくる鼓動が不安を掻き立てる。
「凛月」
「……?」
ただなにかに縋りたい一心で目の前にある家の門に額をくっつけ、ほとんど無意識に凛月の名前を呼んだ。返ってくるはずのない声に返ってきたのはさっきまで聞いていたものと同じ、凛月の声。
「だよね? あれ……それどうしたの、その制服。懐かしい」
さっきまで制服を着ていたはずの凛月は黒いTシャツを身につけ、おそらく日差し除けだと思われる帽子を被り、日傘をさして立っていた。人工的な影の中にいる凛月は珍しく目を丸くして驚いているようだった。頭がぐらつく。なにかが地面に叩きつけられる音がする。
まったく、意味がわからない。