お昼ごはんのお弁当をあまり食べなかったからか、スーパーでたくさんの食材を見たからか、夕食のためにトマトのスープを作っている途中で、お腹がすいてきた。気持ちがいくら沈んでいても結局のところ人間だから、栄養や睡眠は必要不可欠なのだと思い知らされる。

 一通りの家事を終えてから、棚にしまってある蜂蜜の瓶を取り出した。スーパーでは見かけたことがない、泉が買ってきてくれた蜂蜜だ。今までに出会ったどの蜂蜜よりも美味しいから、きっとすごく高いものに違いない。この蜂蜜を泉が食べているところを見かけたことがないので、おそらく私だけで消費している。
 銀色の蓋を外し、とろんとした蜂蜜をスプーンで掬う。泉に見られたらお行儀が悪いと叱られそうだが、冷蔵庫に背中を預けたままそれを口に運んだ。ホットケーキにかけたときよりも甘く感じる蜂蜜が喉を包み、ゆっくりとお腹におさまっていく。これを、泉はどこで買ったのだろう。一度、放課後に寄り道をする約束をして、それが流れてしまってから、泉は仕事が忙しくなった。だから、泉がどこで買い物をしているか、放課後どこで寄り道を楽しんでいるのかを知らない。もしも訊いてみたら、教えてくれるだろうか。

「今日は、何時に帰ってくるんだろ……」

 朝ごはんは一緒に食べてくれるけれど、夜ごはんはそうもいかない。帰りが遅いと泉はあまり食事をしたがらないが、それでは疲れが取れないし身体にもよくないだろうから、せめて少しでも食べてくれるといいと思い、一品だけ野菜のスープを用意するようにした。すると、夜の遅い時間なのに食べてくれるようになったから、それ以来少しずつ味を変えて作っている。泉がスープを食べてくれたら、なぜかそれだけでほっとして、その日にあった嫌なことが和らいでいくから、泉の都合も考えずに、早く帰ってきてくれたらいいのにと思ってしまう。

「……はやく、早く帰ってきて……」

 硬質な冷蔵庫にぐっと身体を押し付けると背骨が痛んだので、そっと座り込んで背中を丸める。あたたかいホットケーキにかけたときよりも甘く感じた蜂蜜に、お腹がずくりと疼いた。



 かたんと音がして、意識が浮上していく。ここ最近はいつもそうであるように、今夜もダイニングのテーブルで予習をしているうちに、いつの間にか突っ伏していたようだ。壁にかけられた時計を見るとそれほど時間は経っておらず、眠っているというよりは、少しのあいだ目を瞑っていただけという方が正しい。音を立てないようにとゆっくり開かれていくリビングの扉を、テーブルに上体を伏せたまま目で追う。今日はきちんとガウンを羽織っていたというのに、ひょっこりと顔を出した泉は「どうして起きているの」と言いたそうな、不満げな顔をしていた。

「ごめん、。起こした?」
「いずみ……。おかえりなさい」

 ぼんやりとした声で泉を迎えたからか、顔をしかめられる。このときなぜか、凛月先輩に顔色の悪さを指摘されたことを思い出したので、慌てて姿勢をととのえたら頭がくらりと揺れた。

「……ただいま。眠たいなら部屋で寝たほうがいいよ」
「大丈夫。これ、やってしまうから。泉は……。今日は、ごはん食べる?」
「うん。スープ、作ってくれたんでしょ?」

 こくりと頷くと、「いつもありがとうねえ」と微笑んで、キッチンに向かう。今日もそれを食べてくれるのだとわかったところで、明日のぶんの課題に向き合う。そうしている間に、ふわりと酸味のあるトマトの香りがたっていく。味付けは問題ないと思うが、どんな味が好みなのかいまだに読み取れていないのは少しだけ不便だと思う。
 ぼうっとして横道に逸れかけた思考を元に戻すように、慌ててペンを取って先をノートに押し付けた。スープを温め終えた泉が、教科書の横に見慣れたマグカップを置く。
 やっぱり、今日もいつも通り牛乳を温めてくれたらしい。知らないことの多い兄妹の関係の中で、新しくできた習慣が続いていくことが、こんなにも嬉しい。

「ありがとう……」

 さっそくマグカップに伸ばした手が握られて、到達する寸前で制止させられた。じわじわと染み込んでくる泉の体温があたたかい。

「……泉、どうしたの」
「それ飲んだら、布団に入って、暖かくして目を瞑って。眠れなくても、横になって休んで。……お願いだから」

 まっすぐ見据えてくる目と、懇願するような言い方にぐっと声がつまる。どくどくとうるさいくらいに心臓が鳴る。この頃はよく眠れていないことと夢見が悪いこと、すべて見透かされているような気がして、悪いことをしているつもりなんてないのに、なぜか後ろめたくなる。
 手首を握っていない方の手が、手持ち無沙汰そうな動きで、髪に触れる。私が初めて夢ノ咲学院に登校した日とよく似た仕草だ。あのとき、私のことを「だいじな妹」と言ってくれた泉は、困っているように見えたのだった。

「……そうしないと、泉は困るの?」

 湧き出てきた罪悪感にも似た形容しがたい感情を隠すように率直な言葉を連ねる。

「うん。困るよ」
「そう、なんだ……」

 すぐに返ってきた言葉は厚く、妹を心配する兄はそういうものなのかもしれないと、くすぐったい気持ちになる。

「……泉が困るのは、いやだから……。言う通りにする」

 こういうときに、妹は兄にどんな言葉をあげるのが正しいのかわからない私は、泉とは違った浅い考えをもとに、下手くそな言葉を紡いだ。泉を困らせたくないと思っているのは嘘ではない本音だから、間違ったふうに届いてはいないと思うのだけれど。





 俺がスープを食べ終える頃には、の勉強も終わったようだった。空になったマグカップをキッチンに持っていこうとするのを止めて、洗面所で歯磨きをするように伝えると、はおとなしくその通りにした。
 掃除や洗濯、食事作りまで、とくに要求していないのになんでもやってしまうから、あんなにぐったりとした顔になってしまうのではないか。ただでさえ新しい環境にいるストレスで疲れているだろうから、ちょっとくらい手を抜いたりさぼったりしてもいいのに。
 もやもやとした考えは本人に伝える前に喉を通り臓腑に落ち込む。どんな伝え方をしても、せっかく頑張ってくれているに水を差してしまいそうな気がしてなにも言えない。

「泉」

 歯を磨き終えたが、寝巻きの上に羽織っているガウンの裾を弄りながら、白い扉の前に立っている。なにかを言いたげに口を開閉させたに、どうかしたの、と尋ねると、たっぷり躊躇ったあとに「泉、おやすみなさい。また、明日」と言って、俺の「おやすみ」も聞かずに、部屋に引っ込んでいった。

「……また、明日って」

 明日も明後日もあたりまえに顔を合わせるというのに、改めて言われるとなんて照れくさい言葉なのだろうと、奥歯を噛み締めながら思う。
 また明日、か。
 がこの家に越してきてからもうすぐ一月が経つが、距離が縮まった実感などなく、今日も明日もこの家に帰ってきてくれる自信もない。それでも、また明日と言ってくれるくらいには、馴染んでくれたのだと思ってもいいのだろうか。

 なにもしてやれないというのに、毎日ここに帰ってきてくれるに、お礼のひとつも返せていないのはもどかしく思う。
 あと少しで仕事にも区切りがつくから、それが終わったら、以前出掛けられなかったときの埋め合わせができたらいい。だから、そのときまでに、少しでもの顔色がよくなるといいと思う。