この学院にいると嫌でも耳に入ってくるのは、私の評価と、もうひとりのプロデューサーの女の子の噂だった。なんでも、ひとつ上の学年のプロデュサーの先輩は、いくつもの企画を通して、衣装作りもできて、レッスンにしょっちゅう顔を出しているらしい。私なんかとは、大違いだ。
 想像以上に、この学院は息苦しかった。できないことが多くて、少しでもついていこうと思うのに、なにも成し遂げられていないから、やればやるほど空回っている気になる。それでも、なにもやらないでいたら余計に焦って怖くなってしまいそうだから、ペンを持つ手は止められないし、授業中にぼうっとしている暇なんてない。

 広い学院に、音楽室はひとつではないのだろう。凛月先輩がよく寝床にしている音楽室はホームルームから一番離れていて、静かで、あまり人がこない。教室にいると焦りと恐怖ばかりを覚えていたのに、ここにいると落ち着く。ピアノを自由に弾けるこの音楽室は、いつのまにかお決まりの逃げ場になっていた。
 悪夢を見る日々が続いているからか、今日は頭がぼうっとする。そのせいで、音楽室に入るときにおでこを扉にぶつけてじんじんと痛んだ。

「なに、いまの音」

 私がここに来るときは部屋の隅っこや机のうしろで眠っている凛月先輩が、派手な音に反応して起き上がっていた。

「ごめんなさい。頭をぶつけてしまって」

 頭に大きな衝撃を受けたというのに、思考はクリアになりそうもなく、いまだにぼんやりとしている。それに加えて、お腹も、痛いような気がする。

「危ないなあ。なにドジなことしてんの」

 もう一度「ごめんなさい」と言い、扉を閉めて、机の上にお弁当箱を置く。立ち上がって、ゆったりとこちらに近づいてきた凛月先輩にじいっと顔を覗きこまれて、背筋がぴんと伸びた。日差しを遮るために重たいカーテンがかけられた窓の、静かで薄暗い音楽室に、凛月先輩の赤い目が鈍く光る。その目は、怪訝そうに細められていた。

「顔色、悪いよ。具合悪いんじゃない?」
「……え?」
「呆れた。自覚なかったの?」

 頭に重たいどろっとしたものが乗っかっている感覚や、少しだけお腹が痛かったりといった不快感はあったが、まじまじと点検したわけでもないから、顔色についてはよくわかっていなかった。確かに、泉はこのところ毎晩ホットミルクを作ってくれるようになったけれど、それがこの顔色のせいだという確証もない。
 自分の頬に触れてみる。冷たすぎず、熱すぎない。熱が出るほどの体調不良でもないことくらい、そこまで馬鹿ではないからわかる。

 ひとりで考えに耽っていると、凛月先輩の手が一瞬だけ私の額に触れた。それはすぐに離れていったから、息を飲むことしかできない。

「怪我はないみたいだねえ。気をつけなよ」
「……ごめん、なさい」

 食欲はないが、せっかく持ってきたからとお弁当をできるだけたくさん食べて、食べきれなかったぶんを横目に、蓋を閉める。私の動きを、いつも通り凛月先輩は黙って見ている。

「それ、残すんだったら俺にちょうだい」

 凛月先輩が食事を摂っている姿を、あまり見たことがない。この時間帯に食べないのか、それとも眠気が先走るのか。だから、ずいっと手を出されて「ちょうだい」のポーズをされて目を見開く。

「……え、凛月先輩が食べるんですか?」
「うん。今日はま〜くんが寝坊したから朝ごはん食べられなかったし、購買に行く元気もないし、お腹ぺこぺこ」

 凛月先輩が食べかけを気にしないのであれば、食材を無駄にするのも憚れるからと言い訳をして、蓋を閉めたお弁当箱を手渡す。半分ほど残ったお弁当を前に、いただきます、と丁寧に手を合わせて、私の箸を使って静かに食べ始めた姿を黙って見つめる。私は見られて居心地が悪かったのに、凛月先輩はこともなげにすべてのおかずとご飯を平らげていく。

「ごちそうさま」
「……はい」
のお弁当、美味しかったよ」
「えっ。あ、ありがとうございます」

 ふっと柔らかくなった目尻と、ゆるく弧を描く口元。優しく笑っている。そんな表情もするのだなと珍しく思いつつ、あんまりじっくり見つめているのも失礼だろうと慌てて目をそらした。

 そろそろ教室に向かわなければならない。ピアノは弾けなかったけれど、今日も泉は帰りが遅くなるのだろうし、放課後に気が向いたらここに来よう。
 お弁当箱を胸に抱いて立ち上がる。凛月先輩は授業に出る気がないのか、同じく五限目が始まるというのに、他人事のように座ったままこちらに視線を向けてくる。

「……今日は」
「?」
「早く寝なよ。がそんな顔してたら、たぶん、セッちゃんが心配するから」

 ひらりと手を振った凛月先輩はそれだけ言って、こちらの返答など必要だと思っていなそうな仕草で机に顔を伏せてしまった。


 教室に帰る途中、頬にさわって感触を確かめる。凛月先輩から見た私は、一体どんな顔色をしていたのだろうか。よっぽど酷い顔をしているのだろうか。
 それでも、ごはんを食べたからか、一時的でも教室から離れたからか、だいぶ息がしやすい。足取りも軽く、午後からの授業もどうにか乗り越えられるだろう。
 そう思いながら歩みを速め、ホームルームのある棟にやってきたところで、すれ違いざまに腕を掴まれた。お弁当箱が床に落ちて、がたんと音を立てた。

「ピアノ、弾くんだ?」
「……え」

 耳に吹き込まれるように話しかけられて、びくりと心臓が跳ねる。
 ちらりと見えた学年色は緑色だった。泉と同じ、三年生の男子生徒はそれだけ言うと私の腕を離して立ち去っていく。あまりに一瞬すぎる出来事で、顔を見る間もなかった。

 ……ピアノを弾く?
 どうしてそんなことを言われるのだろう。そして、この学院では泉と凛月先輩しか知らないそれを、どうして知っているのだろう。
 泉と比較されて悪口を言われるのならまだしも、意図のわからない言葉に気味が悪くなり、その場から逃げるようにして駆け出した。心臓が痛いくらいに動いているものだから、落ち着いていた呼吸も、痛みを忘れていたお腹も、すべてがよみがえり、一挙に押し寄せてくる。


「どうしたんですか、瀬名さん」

 息を切らして教室に入り、自分の机に手をついていると、朱桜くんが驚いて近づいてきてくれる。手のひらに力を入れていないと、漠然とした不安のせいで膝から崩れ落ちそうだった。

「な、なんでも、ない」
「そうですか? あまり、なんでもないようには見えないのですが……」

 背中を優しく摩ってくれる朱桜くんみたいに、この学院には、優しい人だっている。それはとてもありがたいことなのに、ときどきぶつけられる悪意ひとつで、私はその場から一歩も動けなくなってしまう。





「ねえ、ってピアノがすごくうまいよね」

 放課後のレッスン前に着替えているとき、ふいにくまくんに話しかけられた。思いがけないことに話題にあがったのが俺の妹だったものだから、ミネラルウォーターのペットボトルを落としかけた。

「……なんでそれ知ってるの」

 知っているはずがない。あのが、人前でピアノを弾くなんて考え難い。だから、俺以外にそれを知っているなんて、ありえるはずがない。
 学年が違っていながらも、とくまくんがちょくちょく会っていることをなんとなく把握していた。だけど、の個人的なところまで知っている仲になっているとまでは、思っていなかった。
 動揺が滲んだせいでみっともなく上ずった声に、くまくんは特にリアクションをしなかった。淡々とした声で、話を続ける。これでは、俺だけが感情をおもてに出していてひどく滑稽だ。

「いちいち睨まなくていいじゃん……。ただ、こないだ俺が音楽室で寝ていたら、が勝手に弾きはじめただけだよ」
「……そう」
「まあ、また弾いてって言っても弾いてくれなかったけど。なんで?」

 俺とが、まだちゃんと家族のかたちをしていた頃。
 の指がかわいそうなくらいにこわばって、動かなくなったとき。お兄ちゃん、と、面と向かって呼んでくれた最後の日。冷たい春の朝。それらを、にあてた葉書を書きながら、何度も反芻した。

「それ、くまくんに言う必要ある?」
「言いたくないならいいよ。ちょっと気になっただけだし」

 にべもない拒絶に顔色を変えずに返したくまくんは、練習着に着替え終えて、ロッカーを閉める。その音を合図に、追及されなかったことへの安堵から、ふう、と息を吐く。

「……あのさあ。くまくん、に変なことしてないよねえ?」
「失礼だなあ」

 心外そうに顔を歪められる筋合いはどこにもないだろう。失礼もなにも、くまくんにはの転入初日に抱きついた上、べたべたしたという立派な前科があるのだから、疑うのも無理はない。

「なにもしてないよ」
「……いくらくまくんでも、のこと傷つけたら、ひっぱたいてやるから」

 ロッカーをしめて、とらえどころのない男を睨め付ける。くまくんは、俺の言葉に面白いくらい目をまんまるにさせた。なに、とその表情の理由を告げるように促すと、「いや、ほんとうに……」と、口の中でぶつぶつ呟く。 

「セッちゃんってさ」
「なに」
「つくづくシスコンだよねえ」

 揶揄する言葉に思わず腹が立って、その綺麗なかたちの頭をべしっと叩いてやった。まだなにもしてないじゃん、と恨めしそうに見てくるが、なにかしたと言われた日には、こんなものでは済まされない。

「でものことちゃんと見てあげたほうがいいと思うなあ、俺。ちゃんと寝てるのかわかんない顔してたよ」

 けらけら笑っていたかと思えば、すっと落ち着いて、柔らかい表情とのびやかな声で痛いところを突いてくるから、食えないやつだと思う。

「……そんなの、言われなくたって、知ってる」

 言い返そうとするが適当な言葉が見つからない。だから、なにかに悩んで毎日必死になっている妹に、なんて声をかけてあげたら元気になってくれるのかわからなくて、朝ごはんに好物を作ってやったり夜に牛乳をあたためてやったりすることしかできないのだ。