お仕事なのか、レッスンなのか、泉の帰りが遅い日が続いている。それにともなってひとりで家にいる時間が増えた。夏と秋の境目を埋めるかのように振り続ける雨の音を聞きながら眠ると、昔の夢ばかり見るようになった。おかげでこのところはよく眠れていない。
 今朝も同じくすっきりしない目覚めだった。起きるには早い時間とはいえ、また眠るには頭が変に冴えていたので重たい身体をどうにか起き上がらせる。カーテンを開けると、うっすらとした朝日が目に沁みて痛い。

 いつもどおりお弁当箱に中身を詰め込んでいたら泉が部屋から出てきた。眠りが浅いのはよくないことだけれど、そのおかげで泉よりも早く起きられており、泉の帰りが遅くなり始めてからは失敗していない。それもそのはずで、泉は日頃レッスンやお仕事で身体を使っているから、肉体の疲労はたっぷりと蓄積している。

「早起きだねえ……。朝ごはんはどうする?」

 泉は眠たそうにしながらも、てきぱきと着替えと洗顔を済ませて、お弁当の用意をする私のとなりに立った。それからフライパンを取り出し、コンロの上に乗せる。

「泉が作るの?」
「最近は家のことぜんぶにさせちゃってるんだから、それくらいするよ。なに食べたい?」
「……じゃあ、ホットケーキ」
「好きだねえ。いいよ」
「いいの?」
「いいよ。食べたいんでしょ」

 この間も食べたばかりだったから嫌がられるかと思ったのに、慣れた手つきで粉と卵をかき混ぜ、あっためられたフライパンに円を作る。焼ける音とともに、甘い匂いがキッチンに広がった。
 嵐先輩にもらった髪留めはいまだに褒めてもらえていない。今日も懲りずに横髪を留めているのに、気づいているのかいないのか、言葉のひとつもかけてもらえていない。 

「……なあに。もうちょっとでできるから、座って待ってて」

 頭を撫でたくせに、髪留めについてはやはり触れられず、だんだんとつまらなくなっていく。
 二つのお弁当を包んでしまってから席に着く。朝食を作る泉の背中をじっと見つめていたせいでまばたきが足りなかったのか目が痛む。目をそっとこする。頭痛に繋がらなければいいのだけど。

「はい、カフェオレでいい?」

 まつげを持ち上げて視界を整えていると、テーブルの上に湯気の立つマグカップとホットケーキのお皿が並べられた。次いで、前にも用意してくれた蜂蜜の瓶を置かれる。あのとき舌の上に乗せた甘みを思い出すと、からっぽのお腹がきゅっと締まった。

「こういうのでちょっとは眠気はさめるでしょ」
「……眠たかったんじゃ、ないけど」

 カフェオレのマグカップは温かい。困ったことに眠たくなんかないのだ。眠りが浅く、睡眠時間が足りていないのに、深く眠れる兆しもない。
 それを何かと忙しい泉に打ち明けるのは憚られたため、小さく頷いてマグカップに口をつけた。ミルクが多めに入っているカフェオレは甘くてお腹に優しくて、美味しかった。





 昨日は兄者が帰ってくる日だったというのにま〜くんの家にも泊めてもらえず、渋々家に帰れば案の定兄者に散々絡まれて疲れた。家に泊めてさえくれなかった薄情な幼馴染は残酷にも朝にはきっちり起こしてくるので、ちっとも眠れなかった。寝不足と疲労感があいまって早く横になりたくて、音楽室の隅っこで休んでいたというのに。
 とんとんとん、と上履きの裏が床を叩いている。その断続的な音で目がさめた。うるさいなあと寝返りをうって音がやむのを待っていると、やがてその音をかき消すようにピアノの音色が流れる。
 あの子は兄と違ってなんにもできない人間なのだと陰でいやな噂をしている連中を黙らせられそうなくらいに巧くて驚いた。しかし、激しい旋律は眠気の強いいまは安眠妨害でしかない。

は俺の眠りを邪魔するのが上手だねえ……」

 ぶつぶつ言いながら起き上がる俺の姿を見つけたは一度だけ目を瞬かせたが、ここで出遭うのも何度目のことかわからない。初めの頃のような純粋な驚きは長つづきせず、すぐに落ち着き、ばつが悪そうに視線を逸らす。
 お弁当の時間にやってこなかったから今日は久しぶりに夜まで眠れると思っていたのに、昼休みが終わる十分前に滑り込むようにやってきた。いつもおとなしくしているくせに今日はとてもうるさい。そして、行動がうるさい割には、表情が暗い。

「……なにかいやなことでもあった?」

 いつかみたいに、耳を塞がなければならないことがまたあったのかもしれない。この学院にいる限り、それは起こりうることだ。そしてがセッちゃんの妹である限り、ずっとだ。
 しかし俺の心配をよそに、は首をふるふると横に振る。ピアノの蓋を閉じてすうっと息を吐いた。

「……なんでも、ない。うるさくしてごめんなさい」

 なんでもない顔をしていないは暗い表情のままだ。電気をつけていないからだと思ったが、目の下に影が落ちている。それが寝不足の顔にしか見えず、頰を掴んで上を向かせた。やはり一つの抵抗もなくされるがままになっている。いつものであれば、少しくらい嫌がったりするだろうに、されるがままになっているを見ていると調子が狂う。

「ピアノ巧いねえ。もっと聴かせてよ」

 驚いたように目をぱちぱちさせてこちらを見上げてくる顔はあどけない。見れば見るほど、セッちゃんを幼くした顔だと、しみじみと思う。

「……なんで……ピアノ、ききたいって、思うの?」

 震える声は迷子になった小さな子どもの響きでしかなくて、適当な場所にぼとりと落ちてしまう。綺麗な旋律を奏でていた指先は真っ黒なピアノの蓋の上を戸惑いながら滑っている。

「ただ、あんたのピアノは結構いいなって思っただけ」

 思ったままを伝え、こちらを見上げる寝不足の顔を見つめる。瞳の奥が揺れて、泣くのかなと思ったけれど、そんなことはなかった。しかし、これ以上責めるような物言いをすればおそらくは困るのだろうし、を困らせるとまたセッちゃんに鬼の形相で睨みつけられてしまう。はあ、と息を吐き、掴んだままだった頰を離す。ゆっくりと視線は外れる。の視線はぼとりと落ちてしまった言葉と同様、床に落ちて鈍く光る。

「べつに、嫌ならいいよ」
「嫌とかじゃ……! ない、けど」
「けど?」
「ピアノ、最近は……泉にしか聴かせてなかったから、だから……」
「恥ずかしいの?」

 そうじゃない、と首を横に振ったきりなにも言わなくなってしまったところからわざわざ詰め寄って理由を引っ張り出すのもかわいそうだ。

「セッちゃんだったら、聴かせてもらえるんだねえ……」
「……?」
「ほら、早く行かないと授業始まるよ。俺はどうでもいいけど、はちゃんと出るんでしょ」
「……うん」

 壁掛け時計で時間を確認したは慌てて立ち上がる。気に入っているのか、毎日つけている髪留めを触ってから、ふらふらとした足取りで音楽室から出ていく。ふわりと揺れるの長い髪から漂う匂いは、セッちゃんと違って、どこか甘い。