なんでもできる泉となんにもできない私は昔からよく比較されて噂話の餌にされていたからあんな言葉はどうってことないのに、ひんやりとした手で耳を塞がれたときに少なからずほっとしたのはどうしてだろう。それについて深く考えるのは怖いことだと思った。凛月先輩は手を離したあとに慰めるでもなく、ただお弁当を食べ終わったら教室に戻っていったから、目の奥を刺すように押し上げてくる熱いものをなんとかやり過ごすことができた。
マリーゴールド色のスカーフに包まれたお弁当箱を抱えて歩いていると、先の方から慌てた様子の泉がひとりの男の子と一緒に歩いてきた。小走りになっている泉の後を追うように歩くその人は、私がいつかぶつかってしまった、綺麗な金髪の人だった。鳴上嵐という名のその人は「泉ちゃん、ちゃんのことすっごく探し回ってたのよ」と、余裕のない様子の泉とは違って、のんびりと歌うように笑う。
「。ごめん、今日の放課後、行けなくなった」
昨日の夜に交わしたばかりの約束だということは説明されなくてもわかった。
「この、なるくんの知り合いが、俺をモデルに使いたいって言っていたらしくて、放課後に説明を聞きに行くことになったの」
「そう……なんだ」
「……ごめん」
「いいよ。お仕事ならしょうがないもんね」
まだまだ理解のできない部分の多い授業をどうにか乗り越えられたのも、泉との約束があったからだ。それがなくなってしまうのだと聞かされると頭がぐらりとふらつく。
とんとんとん、と左手でお弁当箱の底を軽く叩く。うつむき気味の泉は申し訳なさそうに肩を落としている。夕飯作って待っているねと言えば、帰りは遅くなるかもしれないから先に食べてて、と返されてしまい、どうしようもない。
泉はそれっきりなにも言わず、私もなにも言えなくなったから、お弁当箱を見つめたままじっと佇む。予鈴が鳴った。五分後には席についていなければならない。
「あら、じゃあ、アタシとデートしない? 楽しい場所いっぱい教えてあげる。それに、泉ちゃんに話を持ってきちゃったのはアタシだもの。お詫びもしなくっちゃね」
「……え?」
「はあっ?」
静かな表情で黙っていた泉からは想像できないくらい素っ頓狂な声が上がり、私は泉のあっけにとられた顔を見つめた。泉は鳴上先輩に詰め寄って「デートって、なにするつもり?」と声を荒げている。教室があるフロアと少し離れているとはいえ、通りかからない生徒はゼロじゃない。奇異の目が痛い。
「泉ちゃんたら、変な想像しないでくれる……。ただ、お買い物をするだけ。素敵なお店をいっぱい教えてあげる。ちゃん、まだ引っ越してきたばかりでこの辺のことわからないでしょ」
「……あ、はい。寄り道したことなかったから、わからないです」
「あら、そうなの。じゃあパフェの美味しいお店があるんだけど、行ってみる?」
「パフェ……。行きたいです」
即答すると鳴上先輩は「決まりね」とにっこり笑う。その隣にいる泉の表情は硬く、賛成はしていないであろう顔をしていた。
「なに怖い顔してんの。それっくらいいいでしょ、泉ちゃん」
「いい、けど……」
「いいならもうちょっと良さそうな表情を作りなさいよ」
「夕飯までに帰してくれるんでしょ」
「はいはい、わぁかってるわよ……。ちゃんも、過保護なお兄ちゃんを持つと大変ねえ」
むすっとしたままの泉は「過保護じゃないから」と鳴上先輩の言葉を躱す。
「はなるくんに迷惑かけないこと。あと、今日のぶんは、ちゃんと埋め合わせするから」
「うん、わかった。泉もお仕事がんばって」
二学期に入ってからは毎日一緒に夕飯を食べられていたが、食べられない日が多いことが大半だろう。やりたい仕事も我慢していたのかもしれない。歌やダンスの練習だって、たくさんやりたいはずだ。
優しい兄としての泉が私に歩幅を合わせると、いいことなんてひとつもない。だから、わざわざ仕事があるのだと伝えに来てくれた泉を気遣わせないように、もっとちゃんと送り出してあげられるようになれたらいいのに。
恒例となった朱桜くんとの一日の復習もそこそこに、鳴上先輩との待ち合わせ場所へと足を向ける。大きめの傘は全身をすっぽりと包んで、歩くたびに端っこから水滴が落ちる。
校門のそばに立つ鳴上先輩は落ち着いたチェック柄の傘をさしていた。遠くから私を見つけて「ちゃん!」と弾んだ声をあげる。慌てて駆け寄ると、水たまりが跳ねて靴下を濡らした。
「雨の日に走っちゃだめよ」
初めて会った日も私は走っていて、正面から鳴上先輩にぶつかったのだ。はい、と頷いて、並んで歩き出す。薄暗い雨の中でもきらきらとまばゆい金色の髪は、初対面のときと変わらない。
雨が降っているからか繁華街を歩く人はまばらだった。途中で綺麗な髪飾りがたくさん売っている雑貨屋に寄った。きらきらとした石のついた髪留めをあててきた鳴上先輩に「可愛い」と褒められたそれが世界で一番素敵に見えたので買おうかと思ったけれど手持ちがそれほどなかったので見送った。他にもたくさんのお店があり、放課後がいくらあっても足りない。
雨が降っているのでウィンドウショッピングを早めに切り上げ、鳴上先輩がおすすめする喫茶店へと向かう。そこは新しくて流行りの最先端というよりは、何年も前からあって、人が絶え間なく訪れていて、椅子もテーブルもどっしりと使い込まれているような喫茶店だった。
鳴上先輩が注文してくれた洋ナシやりんご、ぶどうが乗ったものを少しずつ食べる。甘いものが好きなのか、鳴上先輩は美味しい美味しいと素直に口に出して言いながらパフェを崩していく。格好良いのに可愛らしくて、羨ましい。ここにやってくる途中も鳴上先輩の存在は景色から際立っていて、通りすがりの人たちが振り返っていった。そんな人が目の前にいるのはなんだか緊張する。泉以外の異性と出かけるのは初めてだ。
「……ちゃん? 果物、酸っぱかった?」
「え? う、ううん、すごく美味しいです」
「そう? よかった。なんだかあまり食欲がないようだったから……」
「……あ、ごめんなさい。そうじゃないんです」
前に住んでいた土地にはお店があまりなかったし、異性と出かけることもなかった。引っ越してから初めてのことだらけで体だけが先に進んでいるみたいで、気持ちが半歩後ろを歩いている。ここ半月はずっとそんな気分で、やっとのことで生活していた。眩しい出来事が多くてくらくらする。
「……鳴上先輩、綺麗だから」
柄の長いスプーンを置いて、膝の上で手を握る。
「初めて会ったときも金色の髪がすごく綺麗だなあって思ったんです。だからこうやって一緒にいると緊張しちゃって……。うまく会話できなくて、ごめんなさい」
うまくできないことばかりだ。つまらない思いなんて一つもしていないのだと知ってもらいたくて、拙い言い方だけどなんとか言葉にして伝える。鳴上先輩は辛抱強く最後まで何も言わずに聞いてくれていた。言い終えてからは満足してパフェと一緒に頼んだアイスティーを一口飲み込む。
「……泉ちゃんの気持ちが、ちょっとわかったかも」
頰をうっすら赤くさせ、口元を綻ばせた鳴上先輩はぐっと手を伸ばして頭を撫でてくる。大通りに面していない立地の喫茶店はこぢんまりとしていて、学院にいるときはあんなに気になって仕方がなかった視線も声も、なにも気にならない。
ただ、頭を撫でられる感覚がむずかゆい。
「な、鳴上先輩……!」
「嵐って呼んで、ちゃん」
ごそごそと鞄の中から取り出した小さな布の袋を、長い指がすっと動かして、パフェの透明な器の隣に置かれる。促されるまま開いてみれば、それは一番最初に寄ったお店で先輩が勧めてくれた綺麗な髪留めで、驚きに思わず息を止めてしまう。
「これからもよろしくね」
はにかむように笑った金髪の男の子はこの間よりも一時間前よりも綺麗だった。
玄関が開く音がして、はっと顔を上げる。時計を確認すると、短い針が「10」を指しているところだった。予習をしている途中でうたた寝をしていたようだ。慌てて教科書とノートを確認するとあと少しで終わりそうだったのでほっとする。
「おかえり、泉」
雨のせいで濡れてしまった制服の袖を気にしながら、泉は「ただいま」と言って、鞄をダイニングの椅子に置く。
「、ちゃんとごはん食べた?」
「うん。食べたよ」
泉は仕事場で夕食を済ませてきたようで、そのままお風呂へ行ってしまった。
むかし、何度か泉の仕事を見に行ったことがある。いい匂いがする空間で、いろんなひかりがそこにあって、たくさんの服の色は目眩を誘った。あの光景を思い出すとまぶたの裏がちかちかと瞬く。一日ずっと降った雨のせいだろうか、なんだか肌寒い。
「寝るなら部屋に行って。こんなところで寝たら風邪ひくでしょ」
「う……ん……? まだ、眠たくないよ」
「じゃあせめてなんか羽織って」
上着を羽織らなければ夜更かしを許してくれそうになかったので、自分の部屋のクローゼットから手頃なガウンと取り出して身につける。オフホワイトのガウンは手触りがかなり柔らかく、肌にぴたっと吸い付く。これも両親が用意してくれたものなのだろうか。サイズがぴったりなところを見ると、泉のものではないだろうし、新品には違いないのだけれど。
これからどんどん気温は下がっていく。このガウンよりも分厚いものが欲しくなるときも来る。そろそろ半袖の寝巻きをやめて、長袖にしなければならない。たんすの中にないようだったら新しいものを買いにいこう。
鏡の前に立って身なりを確認する。視界の端っこできらりと光った髪留めで適当に前髪をまとめると楽しかった。それと同時に、ちゃんとお返しをしたいなと思う。美味しいお店を教えてくれたことと、素敵なプレゼントをくれたこと。とっさに誘ってもらえた今日は、ものすごく救われたこと。
「ねえ泉、嵐先輩ってなにが好き?」
ガウンと髪留めを身につけてダイニングに戻る。すると、ペットボトルの水を飲んでいた泉は盛大に噎せた。
「なるくん? なんで?」
「これ……なんだけど」
パフェを食る前に寄り道をした雑貨屋で見ていたもの。想定外のプレゼントである髪留めを見せると、へえ、と小さく呟いた。あと何度か咳をしたら呼吸も整ったらしく、大きく息を吐く。
「嵐先輩にもらったの。お返しがしたくて」
「……へえ」
「どう?」
「なるくんの見立てでしょ。いいんじゃない?」
別れ際に嵐先輩がこっそり耳打ちしてくれた「泉ちゃんはきっと可愛いって言ってくれると思うわ」という言葉とは少し離れた位置にあるそれに淡い不満が沸き立ち、黙ったまま、すっと泉を眺める。すぐに視線をそらした泉はペットボトルを冷蔵庫に片付けて、肩にかけていたタオルで髪を拭いている。
「なるくんは可愛いものが好きだよ」
曖昧なアドバイスだけを残して、泉は洗面所に姿を消した。それから聞こえてくるドライヤーの音にため息が紛れる。ざわざわと落ち着かない胸のあたりを押さえてもちっとも楽にはなれなかった。