夏休みが終わると同時に転校してきた隣の席の女の子は、あの瀬名先輩の妹と言うだけあって外見は似ており、誰もその遺伝子を疑わないだろうものであったのだが、喋り方や、表情、仕草は瀬名先輩の振る舞いとは全く違うものであったので、このふたりを『そっくりな兄妹』とは決して言えなかった。
 緊張で口角まで固まった顔を必死に動かして笑顔を作り、はじめましての挨拶をしていた。席に着いても落ち着かないのか、周囲をきょろきょろと見回しているかと思えば、誰かと視線が合うと慌てて俯く。瀬名先輩の妹、さんは、おそらく気が弱い女性だ。

 明日から、俺の妹がかさくんのクラスに入るんだけど。
 レッスン後にそう言った瀬名先輩は言葉の続きを躊躇っているようだったので「プロデュース科に、ですか?」と助け船を出した。アイドルとして女子生徒を受け入れていないはずだったから、転入するとすれば、お姉さまと同じく、プロデューサーだろう。
 瀬名先輩はぎこちなく頷く。言葉も動作も歯切れが悪く、まだ他に何かあるのかと邪推せずにはいられない。

「……もし、隣の席になったら、ちょっとでいいから話しかけてやって」
「はあ……」

 瀬名先輩が私に頼み事をする姿というのも珍しく、この人は本当に瀬名先輩だろうかと疑問が湧き、不躾にもじろじろと見ていたら遠慮なく額を叩かれた。苦悶の声が漏れたのは瀬名先輩のせいだ。

 そうして瀬名先輩の言霊のせいなのか、二学期の初日に教室へと向かってみれば、もともと空白だった隣には新しい机と椅子が設置されており、ホームルームの時間に担任と一緒にやってきたさんはやたらとびくびくしながら席に着いた。この配置は瀬名先輩が仕組んだものなのではないかと疑ってしまうほど、出来すぎている。
 頼みを承ったのだから知らないふりもできない。お姉さまとはこれでなかなか親密になれたと自負しているものの、かといって女性の同級生とどのような会話をすればわからずに、適当な挨拶と、第一印象を伝えてみた。すると、さんは瀬名先輩とお揃いの青い目を丸く開く。透き通った混じりけのない青色に驚きを浮かべてじっと見つめられると、どこかお腹の奥の方から熱いものがせり上がり、心臓に到達する頃には拍動が速まっていた。


 さんが転校してきて一週間が経った。この頃、さんに投げかけられていた様々な視線が色を変えたことに気付く。ただ『瀬名泉の妹』であることで高い水準の期待をかけていた下世話な人間たちに『期待はずれだった』と評価されていた。たったの一週間だけでなにを決断したのだろうか、馬鹿馬鹿しいと思う。
 物珍しさに見物していた品のない人間たちによる根拠もない批評をどう思っているのか、そもそも彼女の耳に届いているのかわからないが、さんはお昼休みになると教室からいなくなる。教室にいるときは落ち着かない様子でいるか、窓の外を眺めているかのどちらかで、教室に馴染んでいるとは言いがたい。
 さんを見ているとひどくやきもきさせられる。授業でわからないところを尋ねてくる遠慮がちな姿を見れば、わずかでも品性が残っている人間は誰もさんを悪くは言えないはずなのに。





 小学生の、まだ家族みんなで暮らしていた頃から、泉は口に入れるものに気を使っていた。それは気を抜いたらすぐに体にくっついてしまう柔らかい脂肪に向けてのことで、モデルとして体を服の中に収めなければならない仕事をしている限り、注意しなければならなかった。
 綿密なカロリー計算なんてできない。さすがにそれは祖母に教えてもらえなかった。だけど、泉にごはんを作ってあげるのだとしたら、知識をつけなくてはならない。泉が作ってくれたお弁当は高カロリーではないが、泉があまり口にしないであろうハンバーグやミートボールが詰められていた。きちんと包まれた二つのお弁当箱の中身はきっと違うのだろう。私が作ったものは残さずに食べてくれるし、毎回「おいしい」と褒めてくれるものだから、この生活を始めて二週間経っても、私は泉の本当の好物を知らない。


、まだ寝ないの?」
「うん、まだ」

 普通の高校と授業の進み方が違うものだからひとつひとつに戸惑ってしまう。ダイニングのテーブルで課題と向き合ったあとはお弁当の下準備もしたいので、まだまだ眠れそうにない。早寝が習慣となっている泉は不満げに眉を顰める。

「勉強でわからないところがあるなら教えてあげられるけど?」
「大丈夫だよ。明日の朝に朱桜くんと答え合わせする約束してるから」
「……そう」

 隣の席の朱桜くんは相変わらず親切で、授業と授業のあいだの短い休み時間にわからないところを尋ねたら快く答えてくれる。葵くんによるとこのクラスで一番の優等生は朱桜くんらしい。成績のよさに加えて、どこかとても立派なおうちの息子である朱桜くんは親切で優しくて丁寧だから、この席で幸運だったと思う。そうでなければ、遠くで噂されている泉の妹としての私の批評が、今よりもうんと大きな声でこの耳に入り、教室に向かう足をもっとどんよりと重くさせただろう。しくしくと痛むお腹を他のことでごまかせないほどには気にしてしまっていたかもしれない。
 課題はあと少しで終えられそうだ。真新しいノートはそれなりにくたびれ、間違えてしまった演習問題の解説をわかりやすく書き込んでくれた朱桜くんの形のいい字が張り付いている。それを指先でなぞる。そうすると、朱桜くんのやわらかいすみれ色の目を思い出す。

「がんばるのはいいけど、ちゃんと日付が変わる前には寝ること。わかった?」

 ことりと音を立てて置かれたホットミルクにはいつも泉がしてくれるように、はちみつが溶かされている。マグカップを両手で包むと、ざわりと落ち着きのなかったお腹がようやくほっと息をついた。

「うん。必ず、そうする」

 すぐに眠れそうなパジャマ姿の泉からはいつものいい匂いではなく、石鹸の匂いしかしない。視線をあわせるように腰を屈めているので、まだ何か言いたいことがあるのだろう。それがなにかわからず、ホットミルクを飲んでじっとしながら薄い唇から言葉が出るのを待つ。やや時間はかかったけれど、マグカップの中身が半分になる前には、口を開いてくれた。

「明日の放課後もかさくんとなにか約束していたりする?」
「……え? かさくんってだれ?」
の隣の席の、朱桜司くんだよ」

 突拍子もない質問をぶつけられて驚いた。朱桜くんは一番おしゃべりをする男の子だけど、放課後のなんでもない時間に特別な約束をするほどの仲にはなれていない。ただ、そうなったらいいなと思ったことが一度もないとは、言い切れないけれど。あの学院にまだ友だちがいないのは、ときどきさみしく思ったりもする。

「約束は、ないよ」
「そう。じゃあ、明日は一緒に帰ろうか」
「泉が私と一緒に帰るの?」
「他に誰がいるわけ? まだ一度も一緒に帰れてないでしょ。学院の近くになにがあるか教えてあげる」

 見開いたせいでひりひりと乾燥する目を思い出したように閉じて、また開く。自然と滲み出た涙が沁みて痛い。それくらい驚いたのは、放課後はいつも忙しそうにしている泉が「一緒に帰ろう」と誘ってきたからだ。しかも、寄り道のおまけまでつけてくれた。
 返事の仕方をすっかり忘れてしまった私は間抜けな顔を晒したままホットミルクを飲み干す。やがて、焦れた泉が「」と名前を呼んで、ついでに頭に触ってきたから、はっとして泉の手首を掴んだ。

「ごめん、ちょっとびっくりして、声が出なかったの」
「はあ……? ぼうっとして、具合でも悪いんじゃないの。やっぱり今日はもう寝たら?」
「具合は悪くないよ。それより、明日の放課後は大丈夫」

 頭に触れられると髪に唇をくっつけられた日のことがするりと思い出されて胸の奥がじりっと灼ける。だから泉の無駄なものがついていない手首を祈りを込めるようにして両手で握る。どうか、大事な返事をしなければならない今は、思い出のせいでわけがわからなくなってしまわないように、頭に触らないでと。

「明日、泉と寄り道する」

 温められたお腹はもう痛まない。手首を握っていた手は夏を越えたというのに日焼けをしていない指先にほどかれ、結局は自由になった手に髪を撫でられたのだけれど、そのころにはきちんと明日の予定を立てられていたから、あとは私が照れ臭い思いをするだけだ。





 今年の九月は雨の日が多い。スタジオで初めてと会った日も、しっとりと雨が降っていた。今日降る雨はそんなに可愛らしいものではなく、ここが防音の音楽室でなければ雨の音がうるさくてまともに眠れなかっただろう。現に一センチほど開いた扉の隙間から激しい雨音が流れ込んできている。

「今日のはご機嫌だねえ……」

 静かで穏やかで薄暗い空間に闖入してきたのせいで、浅い眠りから叩き起こされた。そういえばもうお昼休みだったか、と重たい身体を起こして、遠慮なくお弁当を広げたの前の席に座る。いつもよりも箸の進みが早い。それに心なしか表情が柔らかい。
 眠りを妨げられたあてつけに嫌味ったらしく褒めてやると、機嫌の良さは無自覚だったようで首をかしげられた。

「凛月先輩はお昼ごはん食べないんですか?」
「俺は寝ていたいの」
「……そうなんだ」

 初めて音楽室で遭遇して以来、は毎日ここでお弁当を食べている。教室に居場所がないのか、ただ単に静かな環境が好きなのか、どちらかわからない。

「自分でお弁当作ってるの?」
「はい、一応……」

 おかずの種類が多く、いろどりも綺麗なお弁当だ。これを毎朝作っているのだろう。もともと血色はよくないけれど、寝不足もプラスされて目の下に隈ができている。
 早起きが得意なセッちゃんよりも早く起きて、セッちゃんのぶんのお弁当も作っているのだろうか。この妹なら、それをしかねない。

「一年に、瀬名の妹がいるじゃん」

 不意に飛び込んできた声は、複数の足音と、潜めた笑い声を下敷きにしていたから、かなり耳障りな音だった。雨音だけではごまかせない肉声は鼓膜に残る。

「妹だからどんなものかと思ったけど、拍子抜けした」
「なにもできないのに、なんのために居るんだろうなあ」

 柔らかい表情も、スムーズに口に運ばれていたお弁当も、すべてがなくなってしまった。表情が硬くなり、唇をきゅっと噛んでいる。箸を持つ手は小さく震えている。
 学院内で所構わず居眠りをしているから、取るに足りない噂は簡単に耳に入ってきていた。セッちゃんの妹としてのは良くも悪くも目立っており、その一挙手一投足を監視されているかのごとく観察され、噂話の種にされていることくらい知っていた。いちいち比較されて煩わしいわけがない。他人事だというのに胃から熱いものがこみ上げてくる。
 辛いって言ってしまえばいい。それなのに視線を俯けて息を殺し、必死に我慢している。ほんとうに、セッちゃんにそっくりだ。

「わっ……!?」
「静かにして」

 彼女の兄と同じくらい我慢ばかりして生きてきたはずの妹の、兄よりも小さな耳を両手で塞ぐ。いまさらそれをしたところでなにか意味があるとは思えない。できれば一言二言でもいいから、唇を噛む原因となる言葉がこの温かい耳に届かなければいい。
 ちゃんと俺の言いつけを守り、押し黙っている。どんな意図があってこんな行動に出たのかくらいわかっているだろうから、無理やり手を払うこともなかった。セッちゃんにそっくりな顔と我慢強さを持っているは、やたらと従順にされるがままだ。そういうところが、ひどく苦手だ。
 無性に腹が立って、声には出さずに、馬鹿じゃないの、と口の動きで言葉を吐き出す。

「な、なに……? なんて言ったんですか?」

 品のない笑い声を引き連れた足音がひとつも聞こえなくなった頃に、耳に当てていた手を離しての頭を撫でる。指に絡みつく柔らかい銀糸が気持ちいい。頰をほんのり赤くさせて戸惑った視線を向けてくるに、大して食べたくはなかったが「お弁当分けてよって言ったの」と言えば、少しの間迷ってから、こくんと小さく頷いた。
 そうやって感情の色が皮膚を超えて目に見えるくらいが可愛らしいんだから、唇を噛んで我慢する癖なんてとっとと忘れてしまえばいいのにと思う。