まぶたの裏が眩しい。うっすらとした眠気が心地よく、まだもうちょっと、思う存分眠っていたいのに、泉は容赦なくカーテンを開いて布団をめくる。
「ほら、早く起きる。朝ごはんできてるよ」
「あさ……ごはん……?」
昨日の朝とお弁当は泉が用意してくれたけど、なにかと忙しい泉の役に立てるように、すべての家事は請け負うつもりでいたのだ。目覚まし時計もきちんとセットしたから、絶対に泉よりも早く起きれたはずなのに、どうやら負けてしまったようだ。これは、どういうことだろう。
目を開いて見た泉はすでに制服を着込んでいる。すぐに学校に向かえる格好だ。
「え、もう学校に行く時間なの?」
「寝ぼけてるねえ……。昨日言ったこと、忘れたわけ?」
昨日は初めて学院に行った。間違えて転入してしまったプロデュース科で、泉のことを知っている人がたくさんいた。顔を見ただけで「瀬名泉の妹」と知られてしまうくらいに、泉は有名人だった。ああ、でも、隣の席の朱桜くんだけは、私を泉と似ていないと言ったんだっけ。
「ホットケーキ、焼いてほしいって言ったのでしょ」
柔らかい声に導かれるようにして起き上がると、泉はちょっとだけ拗ねたような、だけど優しい笑顔で立っていた。
ずっと避けて通っていたのは、泉がきらきらした場所で活躍している姿だったから、もともとメディアという類に疎い祖母と暮らしていた数年間は、泉がどんな活躍をしているのか知ろうとも思わなかった。その生活を変えたいと思ったのは、夢ノ咲学院の泉がいろんな人と関わっていることになんだか焦りを感じてしまったからだ。
「……焼いてくれたの」
「当たり前。早く顔洗っておいで」
洗面所のとなりがキッチンだから、冷たい水で顔を洗っているとホットケーキの甘い匂いが鼻腔を刺激する。この頃はずっとなにも食べられなかったから、久しぶりにお腹が空いて食欲が湧いてきた。
「蜂蜜は好きなだけかけるんでしょ?」
「うん、うん……。でもこれ、すごく高いやつなんじゃないの?」
「どうだろうねえ」
モデルとしてお金をそれなりに稼いでいるはずの泉が買ったものだろうか、立派な瓶に詰められた蜂蜜はつやつやとして美味しそうだ。
小さなスプーンでそれを掬い、とろりと傾ける。あたたかいホットケーキに溶けて甘い香りがもっと強くなる。やっぱりお腹がすいたなあと思いながら手を合わせてフォークを突き刺した。泉が早起きをして焼いてくれたホットケーキは、甘くて全身に染み渡る。昨日の夜に泉に食べさせてもらったスープよりもずっとずっとお腹にすとんと落ちる。
「美味しい?」
素直に頷くと頭を撫でられる。泉は髪に触れるのが好きなのだろうか。
「瀬名さん。昨日は申し訳ありませんでした」
着席するなり、先に来ていた朱桜くんに深々と謝られる。
「凛月先輩……、えっと、昨日、瀬名さんを抱き枕にしていた方です。その方がとんだ無礼を働きました」
「どうして朱桜くんが謝るの」
「どうしてって、凛月先輩はunitの先輩ですので」
「ユニットって、朱桜くんと泉が入っているユニットのこと?」
スープだけを飲んで眠る直前に、泉のユニットについてこっそりと調べてみた。すると、メンバーの顔ぶれに見覚えのある人がいた。まず、泉と、泉がくまくんと呼んでいる男の子。そして隣の席の朱桜くん。あとは、確か廊下でぶつかった女の子みたいな口調の、透き通る蜂蜜色の金髪がとても綺麗な男の子。もうひとりは知らない人だったけれど、昨日出会った人のほとんどが泉の近くにいる人たちだった。偶然の集まり方にびっくりしたのは記憶に新しい。
「ええ。瀬名さんは私たちのunitをご存知だったのですね。とても、嬉しいです」
にっこりと笑った朱桜くんには邪気がないから話をしていると安心する。
「泉のことをちゃんと知らないとって思って、調べたの」
「瀬名さんは瀬名先輩のことを知らないのですか?」
首を傾げられて訊ねられると、昨晩、泉のことをインターネットで調べることでどうにか保っていた家族という立場が、しゅんと薄れていくような気がした。離れて過ごす時間が長かったことと、泉のことをあえて遠ざけていたことが相まって、幼少期の思い出でしか泉との関係を証明できない。
「まあ、家族だからってなんでもわかってるなんて、できないよね」
視線が朱桜くんの顔から赤いネクタイに下がってしまった頃合いに、それまで前を向いていた前の席の男の子が振り返り、話に割り込んできた。橙色の髪がまぶしいけれど、緑色の目が優しい。シャープペンシルを器用にくるくる回しながら笑いかけてくるものだから、ぎこちない笑みを返した。
「瀬名さん、瀬名先輩とそっくりなのに中身はちゃんと違うんだね。俺たちみたい」
「俺たち……?」
「俺には双子のアニキがいるんだけど、外見はそっくりだけど食べ物の好みとかは違うんだよね」
「そうなんだ……。私は甘いものをよく食べるけど、泉はあんまり食べないから、そんな感じかな」
「そうそう。まあ、あの先輩がお菓子をいっぱい食べてるイメージはないけどね〜」
きちんと食事内容を管理している泉は気が済むまで甘いものを食べたりしないが、私に対して食べるものを制限させたりはせず、今日の朝もホットケーキにはちみつをかけてくれた。昨日は食べられなかったお弁当の中身は、泉のものとは違うのだろうか。
まるで迷路のような学院の内部を、人目を避けながら進んでいく。お昼休みに賑わうのは教室のまわりばかりのようで、泉が作ってくれたお弁当を抱えてしばらく歩けばすぐに誰もいない空間へとやってこれた。
天井が高い。誰が磨いているのか知れない窓は大きく、太陽の光を床にたくさん投げている。しんと静まり返った広い廊下には、私の小さな足音だけが大きく響いている。はやく、どこかで足を止めなくては。
「……グランドピアノ」
ほんの五センチほど開かれた音楽室の扉をこっそりと覗き込んだら、そこには大きなグランドピアノの他に誰もいないどころか照明も点いておらず、勇気を出して踏み出した一歩目を皮切りに、全身を滑り込ませた。後ろ手で扉を閉めて、背中を扉に擦り付けるようにしてずるずると座り込む。
午前の授業を受けているあいだ、前の席の葵くんも、隣の席の朱桜くんも、たくさん親切にしてくれた。特に、アイドルに関係する専門科目はちんぷんかんぷんだったから、教科書がどこまで進んでいるのか教えてくれたり、以前の授業で配布されたプリントをコピーして分けてくれたりしてくれた。きっと、想像していたよりも、この学科での学生生活はそう悪くはない。だけど、私が泉のことを知らないことで首を傾げた朱桜くんの表情は何度も何度も反芻せざるを得ない。思い出してしまうのは泉から逃げていたことに罪悪感があるからだ。
「お弁当、食べよう……」
扉から一番近い席に着き、マリーゴールド色のスカーフを解いてお弁当箱を開く。朝食のあとすぐに家を出たから、泉はこれを私よりも早起きして作り、ホットケーキの甘い香りがする頃には完成させていたことになる。明日、泉のお弁当を作るには、いったい何時にベッドに潜り込めばいいのだろう。
「美味しそうだねえ」
箸でほうれんそうのおひたしを摘んだとき、頭上から声がして心臓が飛び跳ねた。誰もいないと思っていたし、現に、音楽室の中に誰もいないことを確認してから入った。それが、目の前には泉が「くまくん」と呼ぶ朔間凛月がいつのまにか立っていた。昨日、身体を密着させられた感触が蘇って顔がひきつる。
「……あ〜……、抱き枕にしないから安心していいよ。でもなんで今日はここにいるの? 昨日のセッちゃんの顔が超怖かったから、せっかくレッスン室を使わないで音楽室の硬い床で我慢してあげてるのに……」
すっと隣の席に腰掛ける。気配を消しているのか、無駄な動きがないのか、物音がしなかった。
朔間凛月は私の行動にそれほど興味もないようで、ぐったりと机に伏せて目を瞑る。昨日も眠っていたし、居眠りの多い人なのだろうか。どこででも眠っているのだろうか。昨日の今日だったから、泉に貸してもらった鍵は使わずに、誰もいない場所を探して彷徨ったというのに、ものすごい確率でまた出会ってしまった。まさか、あなたを避けてレッスン室を使わなかったとは言えるはずもなく、ほうれんそうを食べてからそれらしい言い訳を探すためにきょろきょろしていたら、ステージスペースにあるグランドピアノが目に入った。
「ピアノ、ピアノがあったから」
目に留まったのは嘘じゃない。泉と私の家にはまだピアノが届かないから、できるなら弾けたらいいとさえ思っていた。
「……ふうん、もピアノが好きなんだ」
意外にも柔らかい声が返ってきたから、内心驚いて隣の席に目をやると、こちらを見ていないだろうと思っていた朔間凛月の赤い目は昨日よりも優しげで、張り詰めていた心臓がゆったりと落ち着く。落ち着いていく気持ちに促されるようにしてこっくりと頷いた。ピアノのことを家族ではない人と話すのは、小学生ぶりのことだった。
「朔間……先輩も、ピアノが好きなんですか?」
「ピアノは好きだけど、朔間先輩じゃないよ」
「え? でも」
「凛月」
片頬を机にくっつけたまま、こちらを見上げてくる。今日は機嫌が良いようだ。歌うように伸びる声が「あんたはなんでしょ」と言う。まだあまり呼ばれない私だけの名前をこの学院で初めて呼んだのは、この人なのだ。
「……りつ、先輩」
「うん。よくできました」
下の名前を呼ばれ慣れないのと同じく、誰かの下の名前も呼び慣れない。恥ずかしさに頰が熱くなるのがわかった。
私の呼び方に満足をした凛月先輩はそれっきり目を瞑って、やがて寝息を立て始める。泉が作ってくれたお弁当に向き直るとだんだんとお腹が空いてきたので、改めて手を合わせてから、真っ赤なミニトマトに箸をつけた。