ちゃんはほんとうに泉くんにべったりね。
だけどあの子はすこし自立をしないとこの先困ることになる。
泉くんはしっかり者だけど、ちゃんはぼんやりしているから。見た目だけは似ているんだけど……。
ちゃんが泉くんの足を引っ張っちゃわないか心配。
泉くんは優しいから突き放せないだろうしね。
見た目だけが似ていたから、歳がふたつ離れていても双子みたいだと両親は私たちをたくさんかわいがってくれた。その内にある、勉強とか運動とか、能力的なものが浮き彫りになったのは小学校にあがってからで、なんでも上手にできる泉とは対照的に、私はなにも上手にできなかった。それでも、ピアノだけはって思っていたけど、それも、もう……。
ベッドをぐっと押して起き上がる。制服のまま眠っていたようで、まだ一日しか着ていないというのにブラウスに皺ができてしまった。きちんとしている泉の機嫌を損ねさせるのには十分だろう。
泉が両親にだいじにだいじにされていたのを証明するような綺麗なマンションのリビングはさすがに広すぎはしないが、二人で使うにはちょうどいい。いい匂いに導かれるようにして寝起きのまま扉を開くと、テレビもつけずにソファに腰掛けてスマートフォンを眺めている泉がいた。だらしのない私とは違ってちゃんと部屋着に着替えている。
「……起きたの。具合はどう?」
「具合は、悪くない……」
「じゃあなにか食べられる? とは言っても、が作ったものだけど……。料理できたんだねえ」
「うん。教えてもらったから」
逃げるように帰ってきてから、手を動かしていないと落ち着かなかったので、冷蔵庫にあるもので料理をして作り置いておいたものを、泉は食べてくれたらしい。残り香がまだ濃い。ついさっき食べてくれたのだろう。
「そっか。えらいえらい」
子ども扱いをしながらテーブルに食事を並べ、それを食べている間ずっと泉は私の仕草を見つめていた。両親は家事を教えてくれなかったから、すべては祖母に教わったものなのだけれど、中学に通っていた三年間と、高校の数ヶ月があればちゃんと食べれるレベルには達したと思う。少なくとも、制服のまま眠ったところで泉の眉間に皺が寄らなかった程度には、美味しかったに違いない。
「登校初日、どうだった? 嫌なこととかなかった?」
隣に腰掛けた泉が頰をゆっくりと撫でて目を細める。この部屋にやってきた日に頭を撫でられたときのようなぎこちなさだったので、肌触りのいい寝巻きに包まれた腕をそっと握って泉の手から逃れる。色素の薄い皮膚があたたかい。見た目よりも体温が高そうだ。
「なんにもなかったよ。いろんな人が泉を知っていて、びっくりしたけど」
隣の席の朱桜くんと、スタジオで寝ていた黒い男の子と、廊下でぶつかってしまった大きくて綺麗な男の子。泉を親しげに呼んでいたからお友だちだろうか。
「泉は、ここでも有名人なんだね」
「有名人、って……。べつに、そんなんじゃないけど」
「きっと、レッスンも忙しいよね」
「?」
「私、ごはん作ったりできるよ。できるだけ邪魔しないように、がんばる。小学校のときみたいに、泉の邪魔しないように気をつけるから、安心、して……、わっ」
ぎゅむと摘まれた鼻がものすごく痛い。離して、と訴えながら手を掴むも、力の差は歴然で、どうやっても離してくれそうにない。食欲が湧かなかったせいで使われなかったスプーンをテーブルに置き、涙で視界を滲ませたまま泉を見上げる。そして、やだ、と呟くように言えば、永遠に鼻を摘んでいるんじゃないかと思われた強い指が遠くなる。
泉に怒られた記憶はひとつもない。まだ私たちがちゃんと家族だったころ、泉の表情はやわらかくて、王子様みたいで、、と名前を呼ぶ声が優しく、どこに行くにしたって手を握ってくれていた。
「……俺は」
吐き出す声は痛々しいもののように聞こえる。静まり返ったリビングに、綺麗な声が静かに響いた。
「俺は、を邪魔だなんて思わない。だいじな妹だって……、そう思ってる。だからちゃんと食べてくれないと心配だし、馬鹿なくまくんにべたべたされてたって知ったら、腹も立つの」
頑張って伸ばしていた髪を一房掬い上げられ、そこに口づけを落とされた。飛び上がりそうになるくらいびっくりした。アイドルになんてなっちゃったものだからこんな恥ずかしい仕草を覚えてしまったのだろう。開いた口が塞がらず、頰がかっと熱くなって、日本語が、言葉がなにも出てこない。鼻の痛みだって引いていってしまった。
「ねえ、なんとか言ったらどうなの」
「か……髪、たべ、たべた」
「食べてないから」
私からすれば同じようなことだから動揺は拭えず、手が思うように動かせないのでどうしても逃げられそうにない。
なんだかすごく困っているようだ。繊細そうな指先が髪を梳き、もう片方の手はうろうろとそこらじゅうをさまよっている。頰に触れた手から逃げてしまったからだろうか、泉は私との距離を測りかねているように見えた。
久しぶりに会った兄は、もしかしたら私をそこまで疎ましく思ってはいないのかもしれない。迷ったけれど、兄の匂いの近くに行きたかったから、おでこを泉の肩に預けて目を閉じる。そうすると、たっぷり時間をかけてから泉の手が私の後頭部を撫でたので、体がきゅっと苦しくなって、細く息を吐きながら目の前の大きくなった上半身に体重を預けきる。
「……くまくんって、だれ?」
「スタジオの寝床にいた眠たそうなやつだよ。黒い髪の……。わかるでしょ」
抱き枕にされた感触は簡単に忘れられそうにない。あのスタジオにはあまり寄り付かないほうがいいのかなと思う反面、保健室でもない場所でゆっくりと寝られる魅力は強い。授業中にほかの人と鉢合わせになる可能性は少ないだろうし、もうちょっとだけ鍵を借りておこう。
「あのひと、泉のお友だちなの?」
「……ユニットのメンバーだよ」
「ユニット……」
「そう。は聴いたことないだろうけど、曲もあるんだよ」
「泉が歌うの?」
「俺だけじゃなくて、くまくんも……ユニットのやつらも、みんなで歌ってる」
泉の体に耳を澄ませる。
「がピアノを弾いてくれるなら、いますぐにでも歌ってあげてもいいけど?」
勢いよく顔を上げた先には目を細めて笑う「お兄ちゃん」の姿があり、随分懐かしい表情にまたしても顔が紅潮していく。手のひらでぱたぱたと仰いで風を送っても暑い。まだ九月で、血筋なのか、もともと暑いのが苦手な私たちはちょっとしたことで汗をかいてしまう。泉の頰もほんのりと赤くなっているようだ。
「い……いい。ピアノ、ないし」
「電子ピアノなら俺の部屋にあるし、今度、実家からアップライトを送ってもらうことになってるよ」
「え……え、いつのまに、そんなことになっているの?」
「が伴奏してくれたら、家でも歌の練習ができるから。嫌だって言うなら、してくれなくてもいいけど」
遠い遠いむかし、私がピアノを弾いて、泉が歌をうたっていたような。ちゃんと幸せだった記憶は私だけではなくて泉も覚えてくれている。ずっとずっと顔の火照りは取れなくて、泉の寝巻きに頭をぐりぐりと押し付ける。小さいころ、まだふたりで眠っていたころの甘えるような癖だったが、泉はあのときと同じように背中を撫でてくれる。するりと滑る手は記憶のなかに生きているものよりも大きくて骨ばっている。大きく成長してしまった泉との繋がりはもはや、よく似ていると称されるこの顔くらいになってしまったのがちょっと残念だ。
「泉が、明日の朝ごはんにホットケーキを焼いてくれたら、いいよ」
昨日や今日はあまり食事が喉を通らなかったけれど、外がかりっとして中がふわふわのホットケーキだったら食べられそう。料理のできる泉だったらホットケーキくらい簡単に作れるだろう。食べたいなあ、と念を押すように言えば、いいけど、とそっぽを向く。怒っているのかと思ったけど、頰は赤いままだったから照れているらしい。それに安心すると自然と頰が緩んだ。
「……わがまま」
前髪をくしゃりと撫でられる。今までで一番荒っぽい扱いに肩の力が抜けていくのがわかった。忘れかけていた空腹を感じてお腹を抑えたのに気がついた泉がスプーンを持ち、私が泉のために作ったスープを掬って口元に運んできた。すっかり冷めてしまったそれを飲み込む。
満足そうに弧をえがく綺麗なくちびるを、ずっと眺めていた。