この頃は保健室を使いすぎだったせいで、養護教諭の目が痛かった。とはいえ、外で寝ようにも、しとしとと降る雨のせいでそれもできず、選択肢がない。最悪だ。だから、わざわざレッスン室に足を向けたというのに、お気に入りの寝床に先客がいるので最悪に最悪が重ねられ、気分が悪くなる。

「……うわ、セッちゃんにそっくり」

 セッちゃんの妹が一年生のクラスに転校してくるとは聞いていたが、こんなにもそっくりだとは思わなかった。配色はセッちゃんのまま、眠ってはいるけれど顔の作りもおおむね同じだろう。背中まで伸びた髪が短く切りそろえられていたら幼い頃のセッちゃんがやってきたのではと疑いかねない代物だ。

「セッちゃんを縮小したらこんなかんじかなあ……。性格も似てたら面倒だけど」

 つんつんと突いた頰はセッちゃんよりもぷにぷにで触り心地がいい。さらに、セッちゃんよりも顔色が悪い。どうしようもなく青白く、お腹を抱えるようにぎゅっと丸まって切ない寝方をしているので、どこか具合が悪いのではないかと思わされる。

「なんていう名前なんだろう」

 この子もセッちゃんだけど、セッちゃんって呼ぶわけにはいかないし、早く名前を呼ばせてほしい。
 だけど今は眠らせてあげたほうがよさそうだ。
 不健康な色の頰をするりと撫でると自然と笑みが込み上がってきた。





 目を覚ましたら暖かいものにぎゅっと抱きしめられていたのでびっくりする。人は驚きすぎると声が出ないのだと、不本意にも身を以て知ることになった。
 私を抱きしめて眠っている真っ黒な髪の男の子は、同じく黒い睫毛に縁取られているであろう目をぴったりと閉じて静かに寝息を漏らしている。誰だろう、この人は。アイドル科にいるだけあって、寝顔までつくりもののように綺麗だ。
 あまり長くない人生で、泉以外の異性と親密に触れ合ったことがないので、こんなに密着されると嫌でも心臓がどんどんと鼓動する。早めに抜け出してしまわなければどうにかなってしまいそうだ。目の前にある身体は目で見積もって泉よりも細いからなんとかなりそうだと踏んで両手で胸を押すも、びくともしないし、それどころか拘束は強くなっていく一方だ。

「……う、うそ。なんで」
「安眠妨害しないでよねえ」

 眠っていたはずの人間からのんびりとした声が届いてびっくりと目を見開く。

「あんた、セッちゃんの妹でしょ。セッちゃんにそっくりだからすぐにわかったよ」
「せっちゃんって、泉のこと?」
「そうそう、瀬名泉だから、セッちゃん。ああでも、あんたもセッちゃんになっちゃうか。妹ちゃんは、名前、なんていうの?」

 じっとこっちを見据える深紅の目は冷たいものだった。頭が痛くなったから泉が貸してくれた鍵を使って、誰もいないスタジオに敷いてある布団で休んでいただけだというのに、知らない男の子に抱きしめられて詰問されている。この人は泉を知っているらしいが、何年生なんだろう。学年で色が決められているネクタイをしていないからわからないが、泉を気安くセッちゃんと呼んでいるから、三年生だろうか。

「……、です」
「そう。、ひとの寝床でぐうすか寝ちゃって、大胆な子だねえ」
「え?」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、その強さによって頭がだんだんと鮮明になっていく。
 名前を聞いておいて名乗りもしない男の子は寝ぼけ眼でありながらも、背中に回していた手をするすると下げていく。ぞわりと体が悲鳴をあげた。

「や、やめて」
「んん〜? 聞こえないなあ」
「やだ、うそ」
「嘘じゃないよ」
「離して、離してください」
「寝床を貸してあげた見返りに、添い寝くらいしてくれたっていいんじゃない?」

 そんな、ひどい、と絶望的な気持ちになり、体がこわばった。このひとはきっと力が強い。私なんかの腕力ではどうにもならない拘束に、諦念を抱いて大人しくじっとすると、男の子の手は腰を掴み、遠慮なく引き寄せてくる。甘いような薄い匂いがうんと近くなって顔を寄せられると、恐怖で自然と目頭が熱くなった。

「かわいいねえ、は」

 閉じた瞼の端から涙がこぼれ落ちたと同時に、扉の開く音が聞こえたかと思うと、ついさっき顔を合わせた赤髪が飛び込んできた。朱桜くんは目をまん丸にして「さん……?」と怪訝な声を出す。

「あ、ス〜ちゃんだ」
「り……凛月先輩……。なにをしているのですか」
「寝てただけ」

 あくび混じりに答えたあとで、腰を強く抱いていた手から力が抜ける。その隙にベッドから抜け出し、身なりを正すのにも気が回らず慌てて走り出した。射抜くような冷たい視線をこれ以上浴びたくなかった。
 後ろから朱桜くんに呼ばれたが、ここで足を止めるわけにはいかない。放課後だからか、重たい体を引きずるようにして校内を彷徨っていたときよりも人の数が多く、性別のせいか、走っているせいか、たくさんの視線を浴びて居心地が悪い。いったいどこにいけばいいのだろう、おうちに帰ればいいの?

「お、おにいちゃん……」

 走った勢いのまま頭から硬いものにぶつかると、女の子のような甲高い悲鳴が上がる。この学院の、この校舎に女の子の生徒は私の他にあとひとりしかいないと聞いていた。その唯一の女の子にぶつかってしまったのではと肝が冷えて見上げると、綺麗な顔ではあるが、どこからどう見てもその人は完璧に男の子だった。

「ごっ、ごめんなさいっ、ぶつかっちゃって」
「ううん、いいのよ。怪我はなかったかしら?」
「はい、だいじょうぶ、です」
「あらあら、かわいいわねえ。泉ちゃんそっくり」

 綺麗な金髪の男の人は女のひとみたいな話し方で、ぎゅっと抱きしめてくるので身が竦んだ。
 みんな、泉のことをよく知っている。それは昔から変わらず、誰と会っても、瀬名と言えば次に付け加えられる名前は泉のもので、私のことは誰も知らない。

「顔色がよくないわね。泉ちゃんと一緒に帰るの?」
「いえ……」
「今日はユニットでレッスンがあるんだけど、終わるのを待って一緒に帰ったほうがいいんじゃないかしら?」
「だ……だいじょうぶ、ですから」
「そう?」
「はい。ほんとうにすみませんでした……、では」

 勢いよくおじぎをして走り出す。頭がずきずきと傷んだが、眠る前ほどではない。ちゃんと回復してくれたことにほっとして覚えたてのB組までリュックを取りに戻り、またこっそりと学院をあとにした。





 に逃げられたあと、の目が濡れていたことに不信感を持ったス〜ちゃんに散々問い詰められ、隠す必要もなかったから洗いざらい話すとものすごく怒られた。あたりまえだけど、あとでやってきたセッちゃんにも綺麗にチクるのでこれは雷の一つでも落ちるだろうと思っていたら、セッちゃんは見たこともない恐ろしい形相で睨んできたが、言葉で攻撃はしてこなかったから、叱られるよりもずっと肝が冷えた。セッちゃんはこう見えてシスコンなのかもしれない。

 スタジオの空気がひどく重苦しくなり、今日はもう帰ってしまいたいと思い始めたとき、一番最後にスタジオにやってきたナッちゃんが悪気もなくの話をしはじめるものだから、セッちゃんの機嫌はますます悪くなる。

「泉ちゃんの妹ちゃん、走って帰っちゃったけど、一緒に帰らなくてよかったの?」

 本当は一緒に帰りたかっただろうに、いつにも増して機嫌が悪いセッちゃんはいつにも増して素直じゃないから、眉をしかめてため息をついて、べつに、とこぼした。なんにも「べつに」じゃないんだって、俺は知っている。苛だたしそうにつま先で床を叩いている様子から、心配で仕方がないんだって一目瞭然だ。

「……もう高校生なんだし、ひとりで帰るくらいはできるでしょ」
「そうねえ。でも、顔色がよくなかったから心配だわ。それに泉ちゃんのことを呼んでたし」
「どういう意味?」
「おにいちゃん、って呟いてたから、泉ちゃんを探してたんだと思ってたけど」

 はセッちゃんを「泉」と呼んでいたから、もしかしたら「お兄ちゃん」と呼ばれていないんじゃないかなあと思っていた。それだけが不自然な要素にはならない。世の中にはお兄ちゃんをお兄ちゃんと呼ばない弟や妹はたくさんいるのだから。
 だけど、目をまん丸にしているセッちゃんは自分が「お兄ちゃん」と呼ばれたことに対してびっくりしている様子だ。もしかしたら、おそらくこの兄妹はちょっとだけ複雑そうだ。

「……それは、なるくんの聞き間違いでしょ」
「そうかしら?」

 それっきりセッちゃんは妹に関する話をしようとはせず、おそろしいくらい静かにレッスンを始めた。きっと俺に対して言いたいことはたくさんあるし、あの気弱そうな妹に連絡のひとつでも入れたいに違いない。
 セッちゃんがをものすごく大事にしているのはわかるが、のほうはちょっとわからない。