用意された部屋に、必要なものはすべて揃っていた。新品の学習机と大きなベッド、衣類を仕舞うためのクローゼット。一人用にしては大きすぎるくらいのテレビと、真っ白なローテーブル。そして、空っぽの本棚。
「パパとママが用意してくれたんだよ。あとでちゃんとお礼を言っておきなよね」
お兄ちゃんに向かって頷くとき、その動きがどうにもぎこちなくなったのは、私が家族の誰とも良好な関係を築けていなかったからだ。動きと同じく表情もこわばったのに、お兄ちゃんである泉は、私の不自然さを言及しようとはしなかった。そっと頭に置かれた手が大きい。
「。お腹すいてる?」
「……すいてない」
「わかった。そしたら、もうちょっとしたら夜ごはんを作るから、休んでていいよ。引っ越しで疲れたでしょ」
頭に置かれた手をすっと外した泉が部屋から出ていくと、ほっとした。緊張の糸がぷっつりと切れた心地がする。家族なのに、会わなかった時間が長いというだけでまったく知らない人を対峙しているかのようだった。あんなに一緒にいたんだから、一目会えば空白の時間はすぐになくなるのだと思い込んでいたのだ。
部屋の電気を落としてから力の入らない身体をベッドの上に放る。見た目よりもふかふかな布団に深く沈んで、身体を丸めた。
ダンボールに詰め込まれた荷物たち。重たい鞄を持ってくれたお兄ちゃん。一歩も足を踏み入れたことのない、きれいなマンション。
ひんやりとした布地は疲れを癒すにはじゅうぶんすぎるくらいで、目を閉じるといろいろな光景が打ち寄せては去っていく。
一緒に住んでいたおばあちゃんがいなくなってしまったこと。それにともなって、両親のもとに連れ帰られそうになったこと。両親と一緒に住むくらいだったら、高校生の身で一人暮らしをしているお兄ちゃんのもとに身を寄せたいとわがままを言ったこと。
私が一人暮らしさえしなければそれでよかったらしい両親はすんなりと条件をのんだ。離れて暮らしているあいだも季節ごとにはがきを送ってくれた喪服を着た兄も、表情を変えずに「いいよ」と頷いたので、その透明な表情の奥にある真意は読めていない。
私は今日から、数年ぶりに、血の繋がった家族である兄と二人暮らしをすることになる。
◯
しばらく会っていなかった妹は随分と口数が少なくなったように思う。俺との祖母は無口な人だったので、家庭内での会話が乏しかったのであろう。
小学生のときはどこに行くにも俺の後をついてきて、おにいちゃん、と口癖のように俺を呼んでいた。口うるさくなくてもいいのだが、血の繋がりのある妹に「泉」と呼ばれるのは、いささか落ち着かない。
疲れのせいだろうか、顔色の悪いを自室に押し込んだ。あれから数時間、物音ひとつもしないのは、眠っているからだろう。とはいえ、夕食の時間になっても起き出してこないので、控えめに部屋の扉をノックした。三回叩いた硬質な音に対して返答がないので、不意な音でびっくりさせないようにそっと白い扉を開くと、微かな寝息だけが頼りの、真っ暗な空間が広がっていた。
「……、ごはんできたけど」
寝返りさえ打たない妹の目元が廊下から入り込んできた光に照らされてきらきらとまたたく。まなじりにある涙の名残にとうとう言葉すら出なかったから、眠りから覚ますのをやめて、ひとりで食事をすることに決めた。
を任せると言ってくれた両親が期待するもののすべてを妹にあげられるかといえば、そんなことはない。いくら遠くへ行ったとしても高校生の身分は変わらず、両親の子どもでしかなく、ただの未成年だ。都心から離れた静かな町で祖母とゆっくりと過ごしていたが、ただ葉書を送ることでしかその身を案じれなかった兄を全身で頼ってくるとは思えない。両親と兄を天秤にかけて、都合のよかったのがこのマンションというだけで、は俺を兄だと思ってはいないだろう。
だから、は俺を兄とは呼ばず、名前で呼び続けるのだ。
◯
お兄ちゃんとはずっと離れて暮らしていたから、実は、その人となりを充分には理解していない。
家事全般をさらりとこなすところを間近で見ていると、こういう男の人はきっと女の子にもてるんだろうなあと思う。むかしからモデルをしていたけれど、いまはアイドルもしている。眠れない日の夜に聞かせてくれる歌が上手だった。
「ちゃんと持ち物は持った? 初日から忘れ物はありえないからねえ」
「うん。大丈夫だと思う」
両親が用意してくれたリュックはキャメル色の革製で、中に教科書や筆記用具を入れるとずっしりと重たくて、重心をうしないそうだ。負荷をやわらげることもできずにのろのろと歩いていたのに、泉は嫌な顔をせずに歩幅を合わせてくれる。お兄ちゃんってこんなに優しいものなのだろうかと不思議に思うが、世の中のお兄ちゃんの例をよく知らないし、泉のことも知らないことばかりだ。
「……転科の試験まで三ヶ月あるけど、ほんとにプロデュース科に入るのでよかったの」
泉は私よりも心配そうに顔を覗き込んでくる。ついでに、目元をなぞるように触れてくる。くすぐったいのと気恥ずかしいのが一緒にやってきて、顔をそらした。
「プロデュースのことはなにもわかんないし、よくは……ない、けど、夢ノ咲のなかで転科するなら、試験の評価に影響があるからちゃんと通わないとだめなんでしょ。泉が言ったんだよ」
「そうだけど。音楽科なら、夢ノ咲じゃなくてもいいんじゃないの」
音楽をやるのであればわざわざアイドルに特化している高校を選ぶ必要はない。それはそうだけど、それなら最初から夢ノ咲を受けようとはしなかった。泉は私がここにいなくてもいいみたいなことを言うし、実際に、ここにいてほしくはないのだろう。悠々自適に一人暮らしをしていた空間に突然やってきた妹がお荷物でしかないのは、ほんとうだ。
わかってはいるのに、いざ面と向かって言われると悔しくなって、身長の高い泉を睨むようにして見上げると、呆れたようにため息をつかれる。
「そんな怖い顔しなくたっていいでしょ……。あのさあ、プロデュース科に女の子はいるけど、その子は二年生だから、一年生のとは学年が違うし、男ばっかりのところにいなきゃなんないの。わかる?」
「……わかってる。それもう何回も聞いたよ。泉はなにをそんなに心配しているの」
「なにをって、べつに……。大したことじゃ、ないけど」
言い淀んだ泉は結局それ以上なにも言おうとはしなかったし、玄関先でぐずぐずしていたら忘れ物だけではなく遅刻をしてしまいそうだったので、昨日貰った真新しい鍵を握って玄関の外に出た。
二学期の初日。高台にあるマンションからは青い海が見える。鼻に慣れないような、潮の匂いがした。
◯
どこかふわふわとした視線をそこらへんに彷徨わせているは電車のなかでも危なっかしく、もしかしたらこの妹は目を離した隙にどこかへ行ってしまうのではないかと思わされる。
「はい、これの定期。落としたり無くしたりしないこと。わかった?」
両手を使って定期を丁寧に受け取ったは首が取れるんじゃないかってくらい何度も首を縦に振る。
「あと今日、俺はレッスンがあって一緒に帰れないから、ちゃんと道を覚えること。いい?」
「えっ……、う、うん。わかった」
「そんなに遠くないから平気でしょ」
「……うん」
ひとりで帰らなければならないとわかった途端、顔色が変わった。幼稚園児じゃないのだからひとりで帰るくらいわけないだろうが、はじめての場所でひとりにされるのは心細いのだろう。できるなら一緒に帰ってやりたいが、こればっかりは仕方がない。
は口数が少なくて、そして気が弱い。昨日は眠りながら泣いていた。夕食は食べてくれず、朝食もヨーグルトしか食べていない。持たせたお弁当を食べてくれる保証はどこにもない。
「」
「……うん? どうかした?」
「顔色悪いけど」
なかなか目が合わないから腰をかがめて強制的に視線を合わせようとするも、はするすると上手に逃げていく。無理してほしいわけではないが、はっきりと避けられるのは切ない。
「……うん、大丈夫……。ふつうだから」
ちっとも普通ではない顔色をしているというのに、それ以上の追求を許さないためか、一人分だけ空いたスペースに身体を押し込んでそれっきり黙ってしまった。
学院前の駅まで口を開く気がないらしい妹の前に立ち、血色の悪い顔を盗み見る。もともとプレッシャーには弱かった印象があり、それは今も変わらないらしい。初登校の緊張感も含まれているのだろうから、明日や明後日になったら少しでも血の気がよくなればいいのだが。
いつまでも見られているのは喜ばしいことではないだろうと、制服のポケットからスマートフォンを取り出して、一日のスケジュールを見直すことにした。
◯
間違えてプロデュース科を受けてしまったので、あと数ヶ月後には音楽科への転科試験を受けるつもりだとは、口が裂けても言えない。
みんなアイドルを目指してこの学科を受験したひとたちだ。私なんかよりもずっときらきらとした目をしている。
「瀬名さんは、瀬名先輩の妹さんなのですね」
泉が教えてくれた通り、クラスに男の子しかいないのは驚いた。全体の人数はそれほど多くないのは学科の特徴なのだろうか。
一年生だからか、泉とは違って身長がそんなに高くない人がけっこういるのであまり威圧されずに済み、音を立てないように注意して窓際の席に腰を下ろすと、隣の席の男の子にすぐ話しかけられた。
「は、はい……。瀬名先輩って、泉のこと?」
「ええ。私、朱桜司と申します」
すおう、つかさ……。
真紅の艶々とした髪の男の子は丁寧に名乗る。一年生にまで名を馳せているのか、泉の名前はこの学院でも有名らしい。
「わからないことがあったらなんでも言ってくださいね」
「うん、ありがとう」
笑ってお礼を言えたはずなのに、それが不自然だったのか、朱桜くんはじいっとこちらを検分するように見つめて、首をかしげる。どこか変なところがあっただろうか。幼い頃から泉と一緒にいるとじろじろと見られていたから、人の視線が苦手で一気に落ち着かなくなる。
「……どうしたの?」
「ああ、いえ、すみません。ただ、瀬名さんは、よく見ると瀬名先輩とあまり似ていないようですね」
朱桜くんの口から出た言葉に驚いてまばたきの数が増えた。
はじめて満員電車に揺られて登校したり、普通校とは違った授業を受けたり、人前で歌をうたったり、男の子だらけの教室でたくさんの視線を浴びたりしたら、昨日はあんなに寝たとはいえ、気力がぐんと減って机に伏せてしまうのも仕方のないことだと思う。
笑顔でなんでも言ってほしいと言ってくれた朱桜くんは先輩に呼び出されているからと名残惜しそうに教室を去っていった。移動教室のときも朱桜くんがずっとそばにいてくれたから、他の人とは一言も喋っていない。
ポケットにある銀色をぎゅっと握る。銀色はふたつ。泉と暮らすマンションの鍵と、この学院で使うための鍵だ。休みたかったら使いな、と渡された方の鍵を取り出して、矯めつ眇めつをする。部屋番号が彫られているそれを頼りに、校内図を見ておおよそのあたりをつけた場所に行くと、そこは防音のレッスン室のような場所だった。
重たい扉を開いて中に入り、内鍵をかける。鏡のある面にぼんやりと浮かぶ自分の姿は見るに堪えないくらいにぼろぼろで顔色が悪い。電車で血色を案じてくれた泉があんなふうに声をかけるのも無理はない。
「頭、痛い……」
午前中はなんとか乗り越えられたが、これ以上は無理そうだ。レッスン室だというのに片隅にはふかふかの布団が敷いてあり、恐る恐る捲るも、誰も隠れていなかった。皺のないシーツは洗ってアイロンまでかけてあるのだろうか、肌触りがよくて一時でも頭痛を忘れられそう。
力の入らない体を横たえると、すぐに瞼がおりてくる。泉にもらったお弁当の存在が思考をかすめ、胸の表面がちりっと焼けて痛かった。