魔法みたいに光り輝いた日を迎えた。
 耳の奥で憶えていた歌声を知らないうちに聞いていたのかもしれない。ふわりと揺れる頭が心地よくて、瞼の裏でひかる朝陽をまどろみながらもたっぷりと浴びる。リビングにはシャツのボタンをつけられず、途方に暮れている中学生の真緒がいた。だから、これは夢の中のおはなし。いまよりも幼い男の子が、身の回りのことをすべて自分でやり通そうとしている、切なくていとおしい光景。

「……もしも、私がどこにも行けなかったら、私のことをもらってくれる?」

 高価なものを贈れるようなお金なんて持っていない子どもだから、言葉での約束が一番強かった。いいよ、と言ってくれたら、それだけで将来を約束した気になってしまうような、視野の狭い世界。約束を破ったとしても法律で罰せられたりなんかしない。ただ、良心が痛むだけ、それだけ。もしも、真緒が憶えてくれていたとしたら、だけれど。

が俺のお嫁さんになるってことか?」
「そうだよ。私が変な男につかまったりしないか心配なんでしょ。どんな人が変な男かよくわからないし、そしたらまーくんと結婚するのが手っ取り早いよね」

 夢の中とはいえ普段言えないことがぺらぺらと口をついて出てきた。飾り気のないプロポーズのような台詞は甘美でも空想的でもないのに、部屋が白くまぶしい光で満たされているせいでやたらと神聖な気持ちになる。掃き出し窓を覆うレースカーテンが弱い風にふわりと舞ってひるがえる。真緒の前髪は上げられておらず、カーテンに渡された風で小さく揺れた。

「たぶん、まーくんのためならなんだってできるよ」

 真緒は両親が出かけてしまったからといってコンビニのおにぎりで食事を済ませるような子どもだった。何年も前から知っている。舌の上を満たす味。私が……、真緒が、コンビニやスーパーの味に飽きて、作りたてのあたたかいものが欲しくなるほどに寂しくて、だから……。真緒においしいと笑ってもらえたらいいなと乞い願った。古本屋で百円の料理本を買って試した日々は、きらきらと黄金色に光っている。
 なんでもできる、嘘じゃない。なんでもできる。なんでもしてあげたい人。

「なんでも?」
「……なんでも。だから好きな食べ物をたくさん増やしておいてね」

 ボタンをつけ終えたシャツを時間をかけて畳んで、テーブルの上に置いた。仕事を失った手で真緒のピン留めをつまみあげ、矯めつ眇めつする。
 今は遠い未来、真緒は料理ができるようになる。ボタンをつけられるようになる。真緒のことを好きな誰かが真緒のそばに立っている。たくさんの人のために笑っている。

 急速に傾いた日が形を潜め、部屋が暗闇で侵されていく。目が見えなくなる前に真緒の前髪をピンで留めて、中学生になってから伸びた身体にぎゅっと抱きついて目を閉じる。びくりと震えた背中。夕闇に棲んでいたのは、照れたように頬を赤くする幼馴染。髪を梳くぎこちない手はやがて同じように背中に回される。胸がいっぱいになるような、夕焼けよりも優しい声が鼓膜を揺らした。

「いいよ。そんときは、俺がおまえのことをもらってやる。指切りげんまんな?」

 スイッチを切り替えたように、ぶつりと夢が途切れた。ここが眠りの終わり。はっと飛び起きて小指をぎゅっと握る。目の奥がつんと痛んだ。立てた膝に額を押しつけ、すっかり慣れてしまった涙の感触を奥へ奥へと塞ぎ込める。泣かない、泣かない、まだ、泣けない。
 秋に眠るにしては少し薄手の掛け布団を行儀悪く蹴り上げ、寝間着のままリビングに出た。腫れぼったい遮光カーテンを開けっ放しにしていたらしい。夢と違わず、朝陽が魔法みたいにまぶしく輝いていた。透き通ったレースカーテンがふわりと舞い上がる。
 もちろんここには真緒はいない。玄関の扉を開いたらやっと会える真緒はきちんと前髪をあげて、慌てて出てきた私を驚いた顔で迎える。

「びっくりしたぞ。急いで、どうしたんだよ」
「ゆ……、夢を見たの」
「夢? へんな夢でも見たのか?」

 汗ばんだ額に触れられて怖じ気づく。できたら、そんなところは触ってほしくないのに、どうしても抗えずにおとなしくこの手を受け容れる。あたたかい、気持ちいい。

「違う、大丈夫。真緒のライブに行くのが楽しみで、真緒の夢を見ただけだから」
「俺の夢?」
「気になる?」
「当たり前だろ〜? で、俺はおまえの夢でなにしてたんだ?」
「それはね、秘密」

 目を閉じて真緒の手の感触に近付く。乾いた秋の匂いに混じって、真緒の匂いがした。懐かしい匂いだ。

「秘密って……へんな夢じゃないならいいけどさ。俺、今日はもう学院に行くけど、凛月が来るまでにはちゃんと服着てろよな」

 秋にショートパンツで過ごすのは少し肌寒い。足に注がれるじとっとした視線に急かされるようにして素直に頷き、一歩だけ後ろにさがる。太ももを隠すように手をあてるとふいっと顔をそらされたので、夢ノ咲の青いブレザーの裾をきゅっと握って、息を吸う。

「ちゃんとするから。ちゃんと、見に行くから。だってずっとこの日を待っていたの。だから、だからね、一秒でもいいから、私を見つけて」

 いくらねだっても凛月は真緒の写真を見せてくれなかった。その理由が、いまなら少しだけわかる気がする。
 くしゃっと皺寄せられたような形の悪い白い雲が、夢で見たよりも生々しい朝陽にあてられてまばゆく光る。高校二年生の真緒は相変わらずの優しい、だけど低くなった声で「いいよ」と呟き、わずかの逡巡のあとでそっと小指を持ち上げた。

「あのときみたいに指切りでもするか?」

 懐かしくてあたらしい声が優しく響く。真緒の小指をひっくるめるように大きく真緒に抱きついて、情けないくらいに崩れきった泣き出しそうな顔を胸元に強く強く押し付けた。