夜が更けるまで頑張っていた後ろ姿を何度も見かけたんだから。だから、さみしいなんて、言いたくなかったのに。





 インターフォンが鳴ったのを聞く。目を冷やしていたタオルを洗濯機の中に放り投げ、慌てて扉を開くと驚いたように目を丸めた真緒が立っていた。その手は鞄の中に突っ込まれている。

「起きてたんだな。また合鍵使うところだったぞ」
「今日はあんまり眠たくなくって」

 凛月とふたりぶんの影を揺らしながら家路についた。涙は引っ込んだが、塩辛いそれは瞼をぼってりと腫らすのに充分すぎるくらいの量だったので、見かねた凛月にお世話をされていたのだ。それから慌てて夕飯の準備に取りかかったせいで眠る暇なんてなかった。どちらにせよ、誰にも話さずに内緒にしていた本音を口にした高揚感で眠気なんて振ってこなかったのだけど。

「ごはんできてるよ」
「……ん? 
「どうかしたの? お腹痛い?」

 心配そうにじっと見つめてくる翡翠の目に泣きはらして赤くなった目を見られたくなくて、ふいっと素っ気なく顔をそらす。

「今日のお夕飯は、カレーです」

 ほかほかと温まったカレーを盛りつけている最中に、湯気が目にしみて押し込めたはずの涙がぶり返してきそうになる。だめだ、泣いてなんかいられないのに。……幼いころは飽きるほど泣き顔を見せたというのに、今はだめだ。
 私がずっと大切にしまってきた想いを伝えてしまうまでは、乾いたままでいて。

「今日もまた学校に戻るの?」

 スプーンでじゃがいもを掬い声だけで問う。目を合わせる勇気はなかった。

「いや、今日は戻らない。明日だからなー、本番。今日はゆっくり休んで明日に備えるんだよ」

 へらりと笑うのは見慣れた困り笑顔で、直感で『疲れているなあ』と思ったのだけれど、『疲れてる?』と口にしていいのか迷ってしまう。真緒に、真緒のことで私が困る必要はないと言われた日の喪失感を思い出してしまい、ほら、またさみしくなる。
 呼吸を浅くさせるような胸のざわめき。砂を噛んでいるような不快感。





 兄弟がおらず、お父さんがいなくなり、もともと仕事人間だった母親がシングルマザーとなった折により一層根を詰めるようになったので、私は自然と幼馴染に依存するようになった。
 真緒は彼の妹が生まれてからすこしだけ放任されるようになっていたのに、私はといえば父親がいなくなった現実をずっと受け止められなくて、母親に放っておかれるたびに不貞腐れてばかりだったし、凛月は凛月で自分のペースを守って放っておいたら眠り続けていたから、真緒はひとりでしっかり者への道を歩んでいた。もともとの性質もあるだろうけれど、真緒があんなにもおせっかいで世話焼きになってしまったのは私たちのせいだ。

 焦げのついた焼き魚を『おいしい』と褒めてくれた。やりたくもない習い事へ向かう膨れ面のかわいくない手をぎゅっと握ってくれていた。しんと静まり返った家にひとりでいるのが怖くて、そっとベッドに潜り込むと文句を言いながらも手を繋いで羊の数をかぞえてくれた。
 宝物みたいな幼い日々を繰り返すうちに私はどうしても幼馴染たちを手放せなくなる。ひとりでなんて生きられそうになかった。

 同じ顔をした親戚たちは、母親が仕事を頑張っているのは私のためなのだと諭す。そうなのだ、そうなのだろう、そんなこと、だれに言われなくてもわかっている。だからさみしいなんて勘違いなのだと、嘘の気持ちなのだと都合をつけて消してしまいたかったのに。

 母親の前で泣かなくなった。かわりに真緒や凛月の前で泣いていた。ふたりの前ですら泣けなくなった。料理の腕があがった。ほんとは、ほんとうはね、真緒がいなくてもひとりで暮らせるくらいの甲斐性は身に付いているんだよ。でもね。
 大人になったつもりでいたのに、今日は、凛月の前で泣いてしまったんだ。





 明日、と真緒が口を開く。大事な決断をするときのような仰々しさで、かたい顔を伴っていた。

「明日、夕方からだけど凛月もちゃんと起きてると思う。凛月が迎えにきてくれることになってるけど、万が一寝てたら電話してやってくれ」

 かちかちになった真緒は慎重な手つきで食器を棚に片付け、それを終えるとふうっと息を吐いて壁にもたれ掛かった。頬がほんのりと赤い。

「緊張してるの?」
「してない。……いや、そうじゃないけど、そうなんだろうなあ」
「え、大丈夫? カモミールティーとか飲む?」

 夢ノ咲の校門の前で恥じらいもなく大泣きしてしまい、興奮したままだった私のために凛月が淹れてくれたそれが残っていたのだ。使われずにしんと息をひそめていた薄っぺらですぐ割れそうなティーセットを久しぶりに使う。これを最後に使ったのはいつのことだっただろう。

「なんだか昔を思い出すなあ。が泣いて、三人で手を繋いで帰ったら凛月がこうやって紅茶淹れてくれたっけ」

 そうだ、私が泣かなくなったころからこのティーセットは棚の奥に仕舞われて出番をなくしていたんだ。三人で手を繋ぐことだって、中学生になったころにはなくなってしまった。『さみしい』と思うようになったのは凛月が高校生になったからだけど、きっとこの頃からずっとさみしかった。

「そんなこともあったねえ……」
「あのころはがいなくなるたびに冷や冷やしたけど、いっつも決まった場所にいるんだもんな」
「あれは……本当に家出するつもりなんてなかったから、自分の足で行けるところまでしか行けなかったの」
「……今も?」

 カップをソーサーに戻す音がやけに大きく響く。心臓がどくりと高鳴った。

「どうしてそんなこと訊くの?」
「今日の、落ち込んでるように見えるから。……目も」
「目?」
「目、赤いぞ?」

 痛くもなんともないのに、思わずいまだに赤いらしいそこに指を伸ばしてしまい、はっとした。これでは真緒の指摘通りだ。落ち込んで、泣いて、目を赤くしてしまったことを肯定しているようなもの。
 唸りながらソファにずしりと背中を預けきり、顔を覆う。恥ずかしくて顔が燃えているようだった。

「落ち込んで、ない」
「でも、落ち込んでるとき、よくカレー作ってただろ」
「昔の話じゃん」
「そうか? そんな昔のことでもないぞ」
「中学生とか、それくらいのことでしょ。すごく昔だよ。すごく……すごく昔のことのように、感じる」

 手を繋いで歩いた夕暮れの道。橙色に照らされたあたたかな地面。遠くで香る夕飯のにおい。濃紺に沈む東の空。

「でも、俺は、いまでも……。がどっかに行ってしまうんじゃないかって、心配なんだよ」

 何週間も顔を合わせないときもある。それが珍しく感じないほどに距離があいたのに、今更どうしてさみしそうなことを言うのか、怒りにも似た感情が沸き立ち、目を隠していた手をずらして真緒を見る。立ち上がり、私のそばに立っている。下がった眉からは静かな真摯さが見て取れた。
 家族も、誰も、幼いころのように、すこし家を離れただけでは大騒ぎしてくれないだろう。心配性の真緒は騒いでくれるかな。整えられた髪をくしゃくしゃにして、うなじに汗を滲ませながらも走り回ってくれるだろうか。
 彼が私のために使ってくれる時間がすっかりと減ってしまった今、見つけてもらえる確証もないのに家を離れて、馴染みのない場所で好きな人をじっと待っているなんて、怖くてできそうにない。

「行かないよ、どこにも。どこにも行けそうにないから、だから」

 幼いころ、ひだまりの部屋。どこにも行けなかったら私をもらってほしいと、確かに願った。口に出した。

「だから……」

 首を横に振って、言葉を切り捨てる。とうに萎んで消えてしまった怒りは胸に濃く渦巻いている寂しさに支配されてしまい、ほとほと困り果てる。ひどく眠たかった。ぼんやりと俯いて凛月のお茶を飲む。私がこれ以上言葉を続ける気がないと解釈した真緒は、迷うような手つきで指をうろうろさせていたけれど結局私の頭を撫でて、向かい側に座る。目が合うと、眉を下げたまま困ったように笑う。
 どうか、明日は私の好きな人がきらきらと笑ってくれますように。