それは、真緒が中学三年生になったときから予兆があったように思う。
 普通科の高校受験に必要な科目の他に真緒が熱中していたダンスや歌が確かにあったのに、それを目にするたび、耳にするたびに、五感を塞いで無知なふりをした。
 稚拙な抵抗を冬まで繰り返していたのだけど、その場しのぎが通用しないとわかったのは、真緒が夢ノ咲に願書を提出し、受験の準備をほぼ完成させてしまったときのこと。

。俺、凛月と同じところに行くよ」

 アイドル科に行くと宣言した真緒は、まだ同じ通学路を歩き、同じ校門をくぐり、同じ教師から授業を受けていた。底冷えの厳しい、冬の盛り。鼻の頭がつめたくて、首に巻いたマフラーがどうにかして熱を作ってくれているのに、指の先がじんじんと冷えて身体が凍っていく。冷気に包まれた足もかちんと凍ってしまい、その場に立ち止まって前を歩く真緒を見据えた。いつも上げられている前髪が額にかかっている。そのせいでどこかあどけない雰囲気を醸す真緒が、立ち止まって動かない私を訝しげに振り返った。

?」
「真緒、その前髪、どうしたの?」
「ああ、体育のときにボールがぶつかってピンが壊れたんだ。最後の授業だしべつにいいかなって思ったんだけど、やっぱ落ち着かないな」

 へらりと笑ってなんでもないように答える真緒に空恐ろしさを感じ、くらりと目眩がした。身体に不調はないから、寝不足や空腹から来るものではない。これはもっと、深層にある、心の根っこが訴えている恐ろしさ。落ち着く、落ち着かないの問題ではないでしょう。
 針でボタンを縫いつけられないほど、尖ったものを怖がっていた真緒の姿が消しゴムで消したみたいに淡く霞んでいく。

「私、ピン持ってるよ。かわいいやつ」

 鼻がツンと痛くなった理由を認めたくなくて、通学用のリュックサックに手を突っ込みがさがさと漁る。そこそこに散らかっているおかげで『かわいいピン』で真緒の前髪をとめてあげるのに時間がかかってしまったのだけど、真緒はただ黙って私がしていることを見守ってくれていた。『ちゃんと片付けろよ』とも言わなかった。大気いっぱいに浮遊する微細な空気の粒子は、夕方の橙色を吸い込んでもちっとも暖かくならない。

「……できた。子どもみたいでかわいいよまーくん」

 吐く息だけが空気を温めている。『まーくん』と呼んだあとで、そういえば私はこの呼び方をするのは随分久しぶりだということに気が付いて、喉が痛くなる。真緒のことを『まーくん』と呼んでいるのは今やもう凛月だけで、その幼馴染と言葉を交わす時間はこの一年でぐんと減った。そのせいでもはや聞き慣れない呼び方と相成り、たった一年の間でやたらと懐かしい響きを育ててしまったらしい。
 凛月は今年の春に夢ノ咲学院の一年生になり、通学路を違え、案の定あまり姿を見かけなくなった。だとすれば、凛月のことを昔みたいに『りっちゃん』と呼び続けるのは、私にとって最初の抵抗だ。





 たまに見かける赤毛の後ろ頭は疲れたように俯いていることが多かったから、真緒の名前を呼ぶために開かれた口をきゅっと閉じて意味のない空気を飲み下した。
 私が夢ノ咲とは逆方向にある高校に進学したと同時に夢ノ咲の二年生になった真緒は輪にかけて忙しそうで、そしてすこしだけ、元気がないようだった。うららかな春の陽気が甘い花のにおいを孕んでいる。この季節の真緒は花粉症に悩まされているのだけど、真緒の表情をかたくしている原因は、くしゃみや鼻水ではないような気がして、一度だけ声をかけてみたことがある。
 久しぶり、どうしたの、元気ないね、って。およそひと月ぶりに話したから声の掛け方を忘れてしまっていたらしく、言葉が凝り固まってぎこちなく響く。

「元気だよ」

 真緒との距離をはかったことなんてなかったから、苦笑しながらも元気をなくした声で虚勢を告げられ、納得がいかずに食い下がる。

「学校でなにかあったの?」
「ない、なんもない。おまえが気にすることなんてなんもないから、おまえが困った顔なんてしなくてもいいんだ」

 だから、私にとってはそれが一番困るのだと言っているのだ。

 中学生の真緒は針を怖がっていることを隠そうとはしなかったのに、高校二年生の真緒はどうして元気がないのかを教えてくれなくなった。真緒はもう幼馴染の枠内におさまらず、私の知らないところで歌ったり踊ったりして、知らないひとの視線によって磨かれていく。かなしくて、恐ろしくて、そして、それから。





 遠い場所に行ってしまった幼馴染の手のひらが前髪を梳く慈しむような柔らかい感触を、夢の中で反芻した。

「……だれ、まお?」
「そうだよ、真緒だよ。他に誰がいるんだよ。そろそろ起きろって。夕飯の時間だぞ〜?」

 ぐてんと力の抜けた腕を掴まれ、引っ張り起こされる。このひとり暮らしが始まってからもう何度めだろう。朝の早い真緒に合わせて慣れない早起きをしているから、夕方になると抗い難い眠気に襲われ、こてんと眠りこけてしまう。

「それに寝るならU字ロックくらいかけろよな。危ないだろ」
「……ん……そしたら、真緒が入れなくなる……」
「そもそも、年頃の女の子の家に俺みたいな男が勝手に入るってこと自体、あんまよくないよなあ……」
「うそ。そんな冷たいこと言う?」
「冷たいかあ?」
「一生懸命ごはん作って待ってるのに、家に入りたくないみたいなこと言う」
「入りたくないわけじゃないよ。ただ、も高校生だもんな。こないだ凛月が言ってたのって、多分、そういう意味なんだよな」

 うんうんと頷きながらキッチンへ向かおうとしている真緒の制服の裾を、思わずぎゅっと握りしめてしまう。「なんだ?」と首を傾げながらも丁寧な動作でこちらを振り向いて、ソファに座ったままの私を目を合わせるようにしゃがみ込む。胸のあたりがどくりと鳴って、少しだけ痛んだ。

「の……喉、かわいた」

 ただ、ここからいなくならないでほしいだけだったのに、ただの単純なわがままが口から出て気恥ずかしくなる。こんなのはまるで子どもだ。凛月がしょっちゅう私を子どもだと形容するように、私は好きなひとを引き留める上手な手法を知らない浅い人間で、真緒を困らせることでしか真緒の傍にいられない。

「口開けて寝てるからだぞ? 麦茶入れてやるから、ほら、立った、立った」

 引っ張り、支えられる腕。それを掴む手のひら。
 私なんかより、真緒のほうがずっと大きくなった。