お父さんがいなくなったとき、とても悲しくて誰にも会いたくなくなって、私は何度も家出をしてお母さんを困らせていた。
 というセピアがかかった幼い思い出話を、お母さんのみならず、真緒や凛月の口から語られるたびに頬が熱くなるほどの羞恥に身を焼かれる。

 それも、私は夜にスイミングスクールから帰ることもままならない程度には暗い道が苦手であったので、そう遠いところへ行ったり、夕陽が沈みきったあとでもひとりで身を潜めているだなんてできず、小学生だった私の行き先といったら庭の物置だとか、近所の公園だとか、親しみ深い場所ばかりだった。

、帰るぞ」

 家で泣いているお母さんのかわりに、真緒が迎えにきてくれる。誰にも会いたくなくて不貞腐れている私に、黄色の帽子を目深に被せて、両手をやさしく包んでぐいっと引っ張ってくれる、ふたつの手。
 帰り道に歌ってくれる『遠き山に日は落ちて』にしんみりと耳を傾けることがいつの間にか習慣化されているのかもしれない。今でも、夕方になると真緒に会いたくなる。





「う、う……真緒が来る……」
「見てま〜くん。がま〜くんの名前を呼んでうなされてる」

 寒い日の夕方みたいな匂いがした。優しい匂いにつられてやんわりと目を開いていくと、私を覗き込んでいるふたつの顔があり、それは夢で見た顔よりも随分と大人びている。細胞分裂を繰り返して、骨をぐんぐんと伸ばした真緒と凛月の今の姿。

「どんな夢見てたんだよ……」

 心外そうに顔を歪めた真緒が私の前髪をかき乱してくる。くすぐったくて笑いながら身を起こすと、胸のあたりまでかかっていた毛布が剥がれ落ちる。
 寝起きは眠気で満たされている。自分の体温が染み込んだ毛布を肩まで引き上げてまだ眠たいというポーズをとった。

「こら寝るな。夕飯まだだろ〜?」
「無理」
「無理じゃない。おまえ、急いで生徒会の仕事を終わらせてきた俺の身になれよな」
「ううーん……だいじょうぶ、あとあっためるだけだから……」
「そうじゃなくって……! 朝と夜はできるだけ揃って食べるって約束しただろ」
「でも眠たくて」
「準備はしてやるから、ちゃんと起きろよ」

 毛布を剥ぎ取られて肌寒さに震える。真緒の鬼畜、と恨めしげに愚痴をこぼしながら起き上がり、ソファに背中を預けた。両足を擦り合わせながらスカートのプリーツをなおす。
 とすんと左隣が沈む。凛月はにこにこと、いや、にやにやと愉快そうな表情を向けてくるので、嫌な予感がして右の方に身体を移動させる。それでもなにも言わず、無言で近付いてくる。

「ま〜くんとって、いつもあんな新婚さんみたいな会話してんの?」

 凛月の機嫌がいいのは夜だからではなく、私と真緒の会話が面白かったかららしい。
 新婚さんみたいであると揶揄されてやはり顔に熱が集まる。慌てて真緒の方に視線を投げると、カウンターの向こうでシチューの鍋を温めている真緒には聞こえなかったらしい。何の変哲もない平和な表情で棚からお皿を出している。底の深い三人分のお皿と、大きめのスプーン。テレビのつけられていないシンプルな空気と、午後八時をさす時計の針。

「し、新婚さんなんて、……だって、真緒は私のこと」

 妹のようなものだと言われたのは喜ばしくない記憶であり、それを凛月に報告しようとする口は勝手に凍りつく。頬の熱も急激に冷えていき物寂しく、リモコンを手に取る。電源をつけようとしてやめて、またテーブルに置き、スカートの埃を落とすふりをしたり、時計を気にしてみたり。

。ま〜くんは案外にぶいと思うよ」
「りっちゃんはどこまで知ってるの?」
「どうかな。でもがま〜くんを気にしていることくらい、すぐわかると思うんだけどねえ」

 それってどういう意味の気にしている?
 いやだなあ、そんなにやにやしちゃって、なにもかもがだだ漏れの、お見通し済みという感じがする。この凛月の余裕そうな笑みが言うとこによると、どういう意味って、そりゃあ、そういう意味なのだろう。

「ライブにも、行ってみればいいのに」

 凛月に返事をする前に遠くから真緒が「できたぞ」と声をかけてきたので、会話を打ち切って用意された食卓に向かう。
 私が作ったシチューとは別に、作った覚えのないサラダが並んでいた。真緒が作るサラダはいつもレタスとミニトマトの上にクルトンが散らされており、それにシーザーサラダドレッシングをかけて食べる。

「寝起きで食欲ないか?」

 椅子の背に手をかけてじっとしている私に、心配の色を乗せた声をかけてくる幼馴染のことが、とても好きで。

「なく、ない。朝と夜はできるだけ揃って食べるんだもんね」

 愛だとか恋だとか、細やかな感情の分類はわからないけれど、言葉を交わす回数が減ったことを寂しく思ったり、夕方になると会いたくなったり、ひとりで不貞腐れているときに探しにきてほしいと思うから、真緒の存在そのものを小さいころからずっと気にしている。