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真緒は制服のカッターシャツをテーブルに乗せてむずかしい顔をしていた。
お米を買ったせいで重たくなった買い物袋を持ってくれた真緒のために、夕食をふるまおうと思った。真緒が「まだ中学一年生なのに偉いな」と頭に触れる。私は「ひとつしか違わないでしょ」と言って真緒の小脇を突ついた。くすぐったそうに身をよじる幼馴染がいとしいと思う。
その幼馴染はさっきからテーブルの上でくたっとしているシャツを熱心に眺めて動かない。どうしたんだろう。
「まーくん、どうしたの? お腹空いた?」
「あー……」
歯切れが悪い。訊かれたくなかったことなのか、こちらを向いて、すぐに目を逸らす。私はたまねぎの皮を剥く手を止めて、真緒のもとに向かう。
見れば、ぶらん、と開かれたカッターシャツの第二ボタンが見当たらない。小さくて、カッターシャツと似たような色をしているそれは、よく見ると括り付けられているはずであるのにどうしてか今は姿を失っていた。
「なくしたの?」
「なくしてない、けど」
握られた拳が開かれると、クリーム色がかかった白い小さなボタンがちょこんと覗く。テーブルには他に裁縫箱があり、その蓋は静かに閉じられている。おそらく真緒は自分でボタンをつけようとしたのだろうけれど、裁縫道具が使われた形跡はなかった。使おうともしていないように見えたのでますます疑問が深まり、首を捻って「付け方がわからないとか?」と暢気な質問をする。
真緒のことをまだ「まーくん」と呼んでいたこの頃。
真緒は尖ったものを苦手としているのだと、初めて知る。
「情けない話なんだけど」
シャーペンの先とか、針の先を見ると、ちょっとな。
困ったように笑われても、いつもみたいに笑い返すことができなかった。「情けない」と言い切る声はそれを心底欠点だと思い込んでいるように聞こえた。ひとりでなんでもできるようになってしまった真緒は、ひとりでできないことがあったらいけないみたいな言い方をする。中学に入ってからはその傾向がより強く出ており、風邪をひいているのにひとりで留守番をしていることだってあった。
私には、夜遅くなったら迎えにきてくれたり、なにかと世話を焼くくせに。自分のことになるとぜんぶ自分の中に仕舞い込んでしまうのはずるいんじゃないかな。
「あっ、でも、ボタンくらい付けられるようにならないとだめだよな」
じっと黙ってしまった私に心配かけまいとするような不自然に明るい声を出す。裁縫箱に手を伸ばす真緒の手首をぎゅっと握る。ここ最近でぐんと成長した手首は骨のかたさが目立っていた。
「まーくんは一生ボタン付けなんてできなくてもいいよ」
私の好きなやさしい緑色の目が丸められる。
「それはめちゃくちゃ困るだろ……」
「困んないよ。だって、ずっと私がやってあげるから」
握る力を増やす。真緒はもっともっと驚いて、戸惑ってさえいる。
「ボタンが取れたら付けてあげるし、風邪を引いたときに林檎を食べたくなったら剥いてあげる。ごはんだって作ってあげられるよ。まーくんに可愛い彼女ができるまでずっとそうしてあげる」
彼女という言葉に反応したのか、それ以前の諸々のせいなのか、真緒の頬は彼の赤毛みたいに染め上がり、はっきりとあたふたし始める。
だけどもう心に決めたんだもの。
真緒がもっとしっかりして、私や凛月の知らない環境で新しい人間関係をつくる未来はきっともうすぐそばまで来ている。交わす言葉は今よりもずっと減ってしまうだろう。
もしもそうなったとしても、真緒の苦手なことをかわりにやることで幼い繋がりをそのままにしておけるなら、私はいつだって、なんだってやるから。
「……それは、に彼氏ができるまで、でもあるだろ」
小さなボタンは真緒の手のひらで幼い私たちをじっと見守っている。
まだ頬に赤みが残っていた。それを見ていると喉がじくりと疼いて切ない。
「あ、そっか。そういうの、ちょっとうまく想像できないけど……」
「なんでだよ。そういうこと、これからいくらでもあるだろ。でも変な男につかまったりすんなよ〜?」
中学生を過ごして、数年後には高校生にもなって。そうして浅く歳を重ねていく途中で、「そういうこと」が起こるのだろうか。
真緒や凛月ではない誰かと手を繋いだり、のんびりとお昼寝をする光景はやっぱり想像し難い。だからといって真緒が「かわいい彼女」に手料理を作ってもらう光景が想像に易いといえばそうでもなく、でも難しいと言ってしまうには単純な問題でもない。
変わってしまうのはとてもさみしい。どこかに行ってしまうよりも、傍にいるまま遠くなる方が辛い。
ボタンを摘まみ上げてぎゅっと握る。掴んだままだった手首は私のせいで少し赤くなっていた。かたくなった骨を覆う皮膚をするすると撫でる。くすぐったがりの真緒は身をよじるのを一生懸命我慢して、私の好きにさせてくれる。
突き動かされるままに、幼いわがままを重ねた。
「まーくん、……あのね、私がもしも……どこにも行けなかったら、私をもらってね」
ゆっくりと動く真緒の口がどんな言葉を紡いだのか、私はよく覚えていない。
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