大学生になると同時に一人暮らしを始めたとき、ニキに「料理を教えて」とお願いしたことがある。毎日外食をする余裕があるはずもないので、やらなければならないと思った。
基本的に私の意思を尊重してくれるニキが渋い顔をして首を横に振ったのは、記憶にある限り、このときが初めてだろうと思う。新鮮な拒否にぐっと息がつまり、混乱しながらニキの返事を受け入れた。傲慢な私は、まさか、断られるとは思っていなかったのだ。少し工夫した料理を作りたいがために揃えた聞き慣れない名前をした食材のいくつかは、結局使わずに、だめにしてしまった。
買い物かごにどんどん食材を放り込んでいくニキを横目に、そんなことを思い出した。スーパーはひんやりとしていて肌寒く、上着を羽織ってくるべきだったと後悔する。料理と買い出しに慣れているニキは半袖のままでも平気そうで、楽しそうに鼻歌をうたう勢いで食材を物色している。
「ねえ、ニキ……。これ全部買うの?」
一人暮らしの買い出しとは思えない量である。厳密に言えば、ニキのための一人ぶんだけではなく、しょっちゅう寝泊りしている燐音さんの食事と、摩訶不思議な体質になってしまった私の食事の世話をしなければならないので、三人分を用意しなくてはいけなくなる。それにしても食べ盛りの三人には多すぎるとは思うが、大半は人よりもたくさん食べなければならないニキのためのものだろう。
「もちろん。これで何日もつっすかねえ〜」
「よく食べるね」
「まあ、体質だから。名前はなにかリクエストある? なんでも作るっすよ」
「私は、なんでも。ニキが作ったものが食べたい」
体がおかしなことになった時点で、選択肢はしゅんと泡になって消えたのだ。ニキが選び、作り、テーブルに並べたものしか味がわからない。逆に言えば、ニキが作るものであれば、なんでも美味しく食べられるということだ。
「了解っす」
目を見開いたあとに嬉しそうに笑ったニキは、さらにいくつかの食材をかごに入れてレジへと向かう。まだ味がわかる頃は私もスーパーで自分のために買い物をしていたが、そのときには目にすることがなかった金額が表示されて気が遠くなった。やはり、買い出しの手伝いだけでは日々の食事にかかる代金に見合わない気がする。
ひどく不安になってその旨を伝えるが、ニキは「バイトしてるし、最近はアイドルの仕事も入ってきてるから、心配しないで」とにこやかに躱す。あくまで金銭の取引をしない姿勢は一貫しており、有無を言う隙がない。
「ニキって、欲がないのかな……」
その日の夕食は、ニキがひとりで作っている。誰にも教えてもらえていないから料理をする技術に乏しいことと、味覚に異常があることを併せて、ニキの力になれない私は、せいぜい食器を並べる程度の簡単な手伝いしかできず、すぐに暇になって座布団に座りテレビを眺める。燐音さんはスマートフォンから顔を上げて「そうかァ?」と怪訝な顔をしてみせた。
「結構、欲深いとこもあンじゃねえのって思うけど」
「……そうですか? でも私、ご飯代に見合う働きができていない気がするんですよね」
「ちゃんは真面目だねェ。あいつがしてえって言ってンだから、好きにさせりゃいいんだよ」
そんな単純な問題だろうか甚だ疑問である。食事までのつなぎに出される軽食も、作り置きの朝食も、お弁当で渡される昼食も、どれもがニキが料理人として作ったものだ。対価を支払うのは当然だと思う。果たしてニキは、私がおままごとみたいな買い出しに付き合うだけでいいと思っているのだろうか。
ふんふんとご機嫌に料理をするニキの後ろ姿は苦悶とは無縁そうではあるけど、ニキの態度がすべて彼の内面を表しているとも限らない。
「……ニキは、自分の気持ちに鈍感なところがありますよね」
「あァー……」
日も暮れないうちからお酒をのむ燐音さんは私の言葉に同意するように母音だけで返事をする。銀色のビール缶を片付けようと手を伸ばすと、「自分でやる」と言わんばかりに、さっと缶を掴んで寄せる。
「ちゃんがそれをわかってんなら、俺っちは、ちったァ安心だけどよ」
「え?」
「……その呪いも、早く解けるといいな」
呪い? それは私に起きている体の状態のことを指しているのだろうか。
ゆっくりと息をする。トマトを使った料理の匂いを大きく吸うと、食欲がそそられる。燐音さんは目尻でやわらかい表情を作り、安心だけを与えるかのように笑いかけてくる。
なぜか知らないけれど、悲しいことなんてひとつもないはずなのに、心臓がじくりと痛み、目頭が熱くなっていく気がした。
ニキはあの日、私に料理をしなくても良いと言った。教えるのが面倒という理由ではない、その他の言葉を付け足して、はっきりと宣言した。
上手にできないなりに、命を保つための料理くらいはしようと、ささやかな努力をした。だけど、ひとりではなにをするにも味気なくて、やがてその努力も潰えてしまい、そして……。そして、私は。
ニキに料理をしなくても良いと言われた。私はニキの作るものじゃないと、味を感じることができなくなった。
そうしたら、呪われているのは、きっと私なのだろう。
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味覚がおかしくなって、一週間は楽観的に考えていた。こんなおかしな状況が何日も、何週間も、何ヶ月も続くはずがない。そう、思っていた。思いたかったのかもしれない。
しかし、二週間が経過してから、背後からのっそりと不安が姿を現した。何を根拠に大丈夫だと信じていたのか思い出せなくなる。
たとえば、学校の友人との外食。不意につまんだチョコレート。アイスクリームの試食。それらは私の異常さを否応なしに突きつけてくる。一人のときはまだいいが、誰かと一緒に食事をするときに味をしないものを噛んで違和感を飲み込む行為は、ひどく苦痛だった。
アイスクリームを手渡すと、ニキはとても喜んでいた。たくさんあるから燐音さんと食べてねと言い添えると、ひとりで全て食べたかったのか、ええ〜……と、あからさまに残念そうな顔をするので、可愛らしくて、おもしろい。
「燐音さん、今日はいないの?」
「うん。パチンコが勝っててどうとか言ってたし、今日は遅くなるんじゃないっすか?」
「……そっか」
味がわからないことを「呪い」と言われたあの日から、燐音さんを見るとあのとき感じた胸の痛みや泣きたくなる気持ちを思い出してしまうものだから、できるだけ燐音さんと顔を合わせたくなかった。さらに、私の失礼な考えも燐音さんに見透かされそうで、それも嫌だったのだ。
「、燐音くんになにか用事でもあった?」
「ないけど……、なんで?」
首を傾げながら問われ、ぎこちなく否定する。訊ねてきたくせに「なんでって、うーん……、なんでっすかね……」と悩み出してしまったニキは、テイクアウトのアイスクリームが入った袋を抱えて唸る。そんなに抱きしめたら溶けてしまうのではないかと気が気じゃなくなり、ニキの肩を掴んで軽くゆすった。
「ニキ、ニキ 、大丈夫? お腹空いたならアイス食べたら?」
「そうするっす……」
アイスクリームが空腹になりやすいニキのお腹を満たしてくれるかは不明だが、ないよりはましだろう。キッチンスペースからスプーンを持ち出して、ニキに手渡す。
ふわりとキャラメルの匂いが漂う。匂いがするのに味を感じられないのは不思議だ。やはり、このままニキの作るものしか食べられずに過ごしていくのはよくないことだろう。かといって具体的な解決方法があるわけでもなく、考え始めるとすぐに八方塞がりになってしまう。
今後は私が唸る番で、のろのろとベッドの上に這い上がり、すっかりと四肢を投げ出した。
「……、具合悪いんすか?」
「悪くない、けど、いい匂いがする……」
「はあ?」
アイスクリームの匂いと、布団の匂い。キャラメルの匂いと石鹸の匂い。食欲が増すような、眠りたくなるような、遠慮なく欲求を刺激する匂い。
「今日、外でなに食べてきたの」
「なんだっけ。多分、ミートドリア」
「味はわかった?」
「わかんないよ」
「相変わらず大変っすねえ……。簡単なものでよかったら、なんか作るけど」
「ん〜……。ニキ が食べてるのを見てるだけでいい……」
お腹が重たいだけでまったく食べた気がしない。とはいえ、今から食事をするのも気が乗らない。
「やっぱり、ニキの言う通り病院に行ったほうがいいかな」
横になったままニキを見上げて言うと、驚いたようにまばたきを繰り返してアイスを食べる手を止める。
「なんで? あんなに嫌がってたのに」
「いや、だって……。ニキのごはんを食べ続けていたら、ニキがいないと生きていけなくなりそうっていうか、甘え続けてしまいそうだなって」
「それって、だめなことなんすか?」
「……多分。良くはないと、思う」
ニキの人生はニキのものだ。隣の部屋に住んでいられるのも、永遠ではないだろう。これから先、食事の時間帯が合わないことなんて、いくらでも出てくる。
燐音さんと話をしたときと同様の切なさが胸をつき、内側から全身を押し上げる。体をぎゅっと縮めないとめちゃくちゃになってしまいそうだ。
「」
甘いキャラメルの香りに乗せられた私の名前が不意に鼓膜を揺らす。体から力を抜く。いつの間にかベッドに乗り上げていたニキは、目尻をぎゅっと絞り、泣きそうな顔を向けていた。どうしてそんな顔をするのだろう。
「甘えてもいいのに」
独り言を呟くように言ったニキはぐんと顔を寄せる。私の唇の端に柔らかいものがくっつき、すぐに離れていった。
え、と呆気にとられる。溶けてあたたかくなったアイスクリームの一雫が粘膜に染み込む。
「……甘い?」
「わ、わかんない……」
「そうっすか。……よかった」
私の上から体をどかしたニキはベッドから降りて、床に腰をおろす。空になったアイスクリームのカップを持ち、目を合わせないまま「明日はミートドリアを作るね」と言った。