おかしいなと気付いたのは朝にオレンジジュースを飲んだときからだったと思う。舌に訪れるはずのびりっとした柑橘類の刺激は一向にやってこず、冷たいだけの液体がただ喉を通って胃に流れ込む。
体の調子が悪いのだろうかと体調を点検してみても鼻水や喉の痛みなどはない。右と左に体を捻る。もとから頑丈なのが取り柄なので、節々の痛みもなし。
三日後に、食べ物の味が感じられなくなったのだと認めるに至った。そして、私のその症状に一番最初に気付いたのは、おとなりに住むニキではなく、ニキの家に転がり込んでいる燐音さんだった。
「ちゃん、最近痩せたんじゃねェ?」
夕方、家の扉に鍵を差し込んでいるところに、燐音さんがひとりで帰ってきた。頭のてっぺんから足先まで一通り視線を浴び、かけられた言葉は今の状況を的確に指摘していたので、取り繕うこともできずに唖然としてしまう。
実際、私はここ一週間だけで痩せ始めていた。味のしないものを食べ続けるのはひどく面倒で、味のないガムをずっと噛んでいるような感覚にいつまでも慣れなかった。お腹を満たすためだけに喉をつるんと通るものをと思い、もっぱらゼリーばかりを食べていたのだ。
だとしても燐音さんの目敏さはすごい。痩せたといっても病的なほどではない。よく気付いたなあと、大きな体を見上げながらぼんやりと思う。
「おーい、顔色わりいな……。よし、ニキんち来い」
無言でぼうっと突っ立っていたのがよくなかったのだろう。燐音さんは私の手を引っ張り、ニキの部屋に連れ込んでいく。まるで自宅のように自然と鍵をあけて入っていくことに疑問すら抱かせないような流れであった。
「不法侵入……」
ぼそりと言うとけらけらした笑いが返ってきた。いや、どこもなにもおかしくはないところだとは思うのだけれど、栄養が足りていないのか突っ込む元気がない。
「ニキの野郎もあと少しで帰ってくるっしょ。そしたら三人でメシ食おうぜ」
私の貴重な栄養源であるゼリーの入ったビニール袋は取り上げられ、冷蔵庫に入れられる。
「腹減っただろ? これやるよ」
透明なゼリーと引き換えに、ニキが昨晩作ったらしいミルクティ色のプリンを渡される。紅茶の味がして大変美味しいらしい。もらってもいいのかと尋ねると、ニキは最初から私に食べさせるつもりだったと言われる。本当にそうなのか疑いたくなるくらいには軽い調子の言葉だったので話半分に聞くにしろ、これを口にするのは躊躇われた。
いくら美味しいと保証されていようが、今の私には味というものを感じる機能が備わっていない。ニキがせっかく作ったものを無駄にしてしまうという意識が強く、スプーンでプリンをつつく気にはなれない。
「ちゃん、ダイエットでもしてんのか?」
「してないですけど……」
「だよなあ。じゃあほら、燐音くんがあーんしてやろう」
「え? いや、いいです、やめてください大丈夫です」
「遠慮すんなって」
やたらと押しの強い燐音さんに力で敵わず、抵抗もむなしく奪われたスプーンでプリンをすくい、口元に押し付けてくる。
どくりと心臓が強く胸に叩きつけられる。恐ろしさで冷や汗がにじみ出たのも束の間、舌先に甘みが広がった。
「……甘い?」
プリンだからなあ、と当然のことを言う燐音さんの声を遠くで聞く。恐々とスプーンを口に含み、プリンを食べてみる。冷たくて甘い。びっくりするほどに美味しい。
「うめえだろ?」
作ったわけでもないくせに得意げに笑う燐音さんの姿がどんどんぼやけていく。
「……はあ!?」
突然泣き始めた私に面食らったらしい燐音さんはプリンを持ったままぴしりと固まる。タイミング悪く帰ったニキが「燐音くん! 人んちでなんで泣かせてるんすか!」と燐音さんの腰を叩く。呼吸が落ち着いて残りのプリンを食べられるほどになるまで、口のなかにはニキが作ったプリンの優しくて甘い味がずっと離れずに在ったのだった。
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「難儀な体になっちまったなあ」
ティッシュで鼻水を拭いていると、ローテーブルを挟んだ向かい側から燐音さんが笑いかけてくる。笑い事ではない、と燐音さんに出くわしてから何度も思っている。
「笑い事じゃないっすよ。美味しいものを美味しく食べられないなんてこの世の終わりみたいなもんっす。燐音くんはの気持ちを考えて発言して」
ニキの方は極端なことを言って私の心臓をぎゅっと握り潰す。「この世の終わり」という言葉にびくりと反応して呆然としていると、燐音さんがニキの腰を叩いた。痛いという叫び声に、仕返しだと笑っている。お前こそちゃんの気持ちを考えろとも言ってくれた。
顔色が悪く、泣き腫らした目をしている。同情してくれているのだろうか、なにかとからかわれてばかりだったから、燐音さんに優しく庇ってもらうのは落ち着かない。
「いや悪い意味じゃなくって……、だって、ご飯の味がしないのが気持ち悪くて、食べられなくて、痩せちゃってるんでしょ? 大変なことっすよ」
「でもニキのプリンは甘くて美味しかったもん……」
ティッシュをゴミ箱に捨てて、ぬるくなったプリンの瓶を手に持つ。一口食べるとやっぱり美味しく、空っぽだった胃袋が甘さで満たされていく。透明な瓶が空になって向こう側の景色を映せるようになるまで、じっと見守り、ほう、と感心したような声を喉から吐き出した。
「そりゃあ美味しくなるように作ったから……って今はそんなことはどうでもよくて、とにかく味がしなくても食べたほうがいいっすよ。ぶっ倒れたら大変だし」
夕飯前にとりあえず、と出された小鉢に入っていたのは、電子レンジで温められた大根と鶏肉の煮物だった。いい匂いがする。ニキ が「さあ食べて」と促し、箸を差し出してくる。
「また俺っちがあーんしてやるか?」
「またってなんすか? 燐音くんの癖にの世話を焼いたんすか?」
「んだとニキてめえ。ちゃんがあーんしてって言うからしただけですぅ」
事実とかすりもしていない嘘に突っ込む気力がないのは栄養不足からくるものだろう。
「人んちにあがりこんで、あんたらはなにイチャついてるんすかねえ……」
ニキは考えるように目を伏せて、テーブルの上に置かれた温かいはずの小鉢を引き寄せた。私が受け取れなかった箸で、しっかりと煮込まれて味付けがされている大根を綺麗に持ち上げる。そしてニキはとんでもない行動に出た。
「まあ、栄養ないと力出ないのは事実だし、あーんしてあげる」
「いっ、いいよ! 大丈夫、自分でできる」
慌てて箸ごとニキの手を握り、大根を口の中に入れる。噛めば噛むほどじわりと味が染み出てきてやたらとおいしい。
「……お、おいしい」
「え、プリンだけじゃないんすか? 味、わかるの?」
噛んで飲み込んでも、口腔内に甘くてしょっぱい味が残っている。箸がからんと音を立ててテーブルの上に落ちた。ニキの目はまん丸だ。
「そうみたい」
「へえ。てことは、ニキのメシなら味がわかるみてェだな」
実験とばかりに燐音さんが食べさせてきた市販のチョコレートは味がせず、結論として、私の舌はニキの料理の味しか知覚できないものに成り果てたというわけだ。
「は病院に行った方がいっすね」
「びょ、病院? なんで? 病気になんてなってないよ」
「だって、異常事態でしょ……。ちゃんとお医者さんに見てもらお」
「……ニキのご飯の味はわかるんだよ。それだけじゃだめなの?」
落ちた箸を使い、小鉢の中身をあっという間に平らげてみせる。久々に感じる味がニキの美味しいご飯だというのはすごく幸福なことだ。食べることで空腹は刺激され、どんどん欲しくなる。この一瞬さえあれば十分だと思った。それなのに、病院に行かないといけないのはなぜだろうか。
「あ〜……、うん。いや、あのね、そうじゃなくって……」
はあ、とため息を吐き、テーブルに肘をついてのろのろと手を伸ばしてくる。硬い手のひらが私の頭をかき回す。ニキの指先は少しだけ紅潮していた。
「イチャついてんのはそっちだろうが」
「イチャついてないし、燐音くんも傍観してないでの説得に協力してほしいんすけど」
「やだね。ちゃんがどうするか決めるのはちゃんの自由っしょ」
さっきのものよりも大きなため息を吐いたニキは、手を私の頭に乗せたままうなり、そうっすけどお……と萎れた声をあげる。
病院に行ったところで、「ニキっていう人の作ったご飯の味しかわからないんです」というおかしな供述をする以外の用事がない。そのためだけにわざわざ滅多に足を運ばない場所に行く気にはならなかった。
「ちゃんとご飯代を払うから、一日に一回だけニキにご飯を作ってほしい。……っていうのは、だめ?」
私の頭に乗っている手を握り、そっと離す。味がわからず、食事が進まず、栄養が行き渡らずに行き倒れるのは避けたいとは思っている。一人暮らしの身の上であるので孤独死になる可能性も高い。最悪の未来を防ぐためには、唯一味がわかるニキの食べ物をできるだけ食べるしか方法がない。
「食事は一日三回摂るものっすよ」
さして迷いもせず、頬に夕焼けを受けたニキはすらすらと提案した。
「買い出しのとき、は絶対に僕を手伝うこと。そしたらの三食を保証する。それが条件。どうっすか?」
「どうっていうか、条件が良すぎる気がするんだけど、いいの?」
「いいっすよ。僕にとっては、がぶっ倒れちゃう方が嫌なんで」
交渉成立とばかりに握った手を雑に上下する。手のひらから伝わる熱に、一人で冷たい体を抱えてじっとしていた長い一週間が温められていく。それにまた泣きそうになるが、ここで泣いてしまったらさすがに泣き虫だとからかわれてしまいそうなので、ぐっとこらえる。わずかな刺激で流れてしまいそうな涙を堰き止めるために、「結婚みてェだな」と嘯く燐音さんの声は聞かなかったことにした。